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法園寺ほうえんじ

大阪府池田市建石町にある、浄土宗の歴史深い古刹。

所在地 大阪府池田市建石町3-1
TEL 072-751-3623
山号 竹原山 玉蓮院
宗派 浄土宗(総本山知恩院末寺)
本尊 阿弥陀如来坐像(伝・鳥居義信〈鳥仏師〉作)
開山 玉蓮社 勝誉(しょうよ)上人
創建 室町時代(天文7年〈1538年〉に勝誉上人が再興)
別称 阿波堂(創建当初の名称)

池田城主の菩提寺として伝統を受け継ぐ法園寺。

法園寺(ほうえんじ)は、大阪府池田市建石町にある浄土宗の寺院です。室町時代に創建された歴史ある寺院で、池田城主ゆかりの菩提寺として発展しました。山号は竹原山、宗派は浄土宗知恩院派、本尊は阿弥陀如来坐像です。池田市内の浄土宗寺院では寿命寺・西光寺と並ぶ「池田浄土宗三か寺」の一つに数えられます。戦国期には池田城の砦(とりで)的な役割も果たし兵火に遭いましたが、江戸時代に再建され、現在は江戸期建立の本堂や観音堂など歴史的建造物と多数の古仏像が残されています。

  • 本堂(阿弥陀堂)

    法園寺の本堂は阿弥陀如来を本尊とする正堂で、江戸時代に建立されたものです。戦国時代の兵火で堂宇を焼失後、江戸初期までに再建され、現在も約300年前の建立当時の姿を留めています。阪神・淡路大震災(1995年)で大きな被害を受けましたが、その後修復されました。本堂内部には本尊の阿弥陀如来坐像(伝・飛鳥時代の仏師鳥居義信〈通称:鳥仏師〉作)が安置されています。この阿弥陀像は鎌倉時代初期の作と伝えられる堂々たる坐像で、観音菩薩・勢至菩薩の二菩薩を両脇侍として三尊一組の阿弥陀三尊を構成します。また、本尊に向かって右手には浄土宗の高祖善導大師(中国・唐の善導)、左手には法然上人(浄土宗開祖)の木像が祀られており、浄土教系寺院としての特色を示しています。

  • 観音堂

    本堂に隣接する観音堂は江戸時代中期の元禄6年(1693年)に僧・円海法師によって建立されました。桁行三間の小堂ですが、寄棟造瓦葺の純和様建築で、300年以上経た現在も往時の姿を保っています。本堂と同様に戦火や震災を乗り越えた貴重な建物です。堂内の本尊は聖観世音菩薩立像(聖観音)で、高さ約170cmの等身大のヒノキ材寄木造りの仏像です。作風から平安時代後期の作と考えられ、奈良仏師の系統である慶派の仏師によって彫られたと伝えられます。北摂地域三十三所観音霊場の第20番札所にもなっており、地域信仰の対象ともなってきました。観音堂の天井板には「雲龍図」と呼ばれる龍の天井絵が描かれており、江戸時代の絵師・桃田伊信による作品です。この天井画は池田市指定有形文化財にも指定されており、かつては鮮やかな龍が天井一面に躍動していました。しかし経年により絵具が剥落し、現在では僅かにその痕跡を留めるのみとなっています。

  • 山門(城門)

    法園寺の山門は石垣の上に構える重厚な門で、その姿はまるで城郭の櫓門のようです。実際にこの門は寛文8年(1668年)頃、隣接地域を治めていた麻田藩の陣屋(または砦)の門を移築したものと考えられています。切妻造の薬医門形式で、石垣の基壇に据えられた様子は、かつてこの寺が城の一部として機能した歴史を今に伝えています。戦国時代、法園寺一帯は池田城の南端を守る要衝であり、織田信長が池田城を攻めた際(1570年代)や荒木村重が反乱を起こした際(1574年)、この門周辺で激しい攻防戦が繰り広げられ、多数の戦死者が出たと伝えられます。そうした歴史から、池田市内に地蔵尊が多いのはこの地で討死した兵たちの霊を慰めるためとも言われています。山門は江戸期以降、寺の表玄関として地域の人々を迎え続け、現在も往時の姿を保ちつつ大切に保存されています。

  • 八角堂(納骨堂)

    法園寺の境内には八角堂と呼ばれる珍しい形の小堂があります。八角形の平面をもつこの御堂は、内部が納骨堂(永代供養塔堂)として利用されており、先祖の遺骨を安置する施設になっています。江戸時代後期に建てられたとの伝承もありますが定かではなく、現在では数少ない欅(けやき)材で造られた八角堂として貴重な存在です。内部中央に安置された阿弥陀如来像の足元地下に遺骨を埋葬する形式を採っており、希望すれば骨壺を納める壇も利用可能です。浄土宗の寺院ではありますが、この納骨堂は宗派や国籍を問わず誰でも利用できるため、遠方からの分骨や改葬の受け入れも行っています。八角堂は明治以降の無縁墓問題に対応した施設として整備されたとも言われ、現代まで地域の人々の信仰と供養の場として活用されています。

  • 梵鐘(寺鐘)

    本堂横の鐘楼に吊るされている梵鐘は、江戸時代初期の慶安2年(1649年)に鋳造されたものです。銘文には当時の法園寺第11世住職「心誉上人」による寄進であることが記されており、江戸初期の典型的な寺院鐘の姿と音色を今に伝えます。池田市指定文化財にも指定されており、戦火や震災を免れて現存する貴重な工芸品です。現在の住職によれば「音色はさほど良いとは言えない」ものの、地域の人々にとっては除夜の鐘などで親しまれる存在です。重量感のある青銅製の梵鐘には唐草模様や銘字が鋳出されており、製作当時の高度な鋳造技術を偲ばせます。

法園寺のあゆみ

  • 15世紀前半
    (応仁の乱以前)

    阿波国(三好氏一族)出身の後室を葬ったことから「阿波堂」と呼ばれていました

    池田城主の発願によって城の外郭内(城下)に阿波堂が建立され、亡き後室の冥福を祈ったのが法園寺の始まりと伝えられています。

  • 1538年
    (天文7年)

    阿波堂の跡地に堂宇を再建して寺号を「法園寺」と改めました

    戦国期の天文7年(1538年)、洛陽(京都)の法園寺で第四世を務めていた浄土宗の僧・勝誉上人が当地に入寺し、阿波堂の跡地に堂宇を再建して寺号を「法園寺」と改めました。これにより正式に浄土宗寺院としての法園寺が開山され、山号「竹原山」もこの時に定められたとされています。勝誉上人は地元檀徒の協力を得て堂宇の再建と寺運の興隆に努め、法園寺は周辺住民の厚い信仰を集めるようになりました。

  • 1570年
    (安土桃山時代)

    安土桃山時代には幾度かの戦乱に巻き込まれます

    織田信長による池田攻略(1570年代)や、池田城主・荒木村重の離反(1574年)の際には、法園寺は池田城南端の砦として利用され、寺域が合戦の舞台となりました。この戦乱で堂宇は焼失し、法園寺は一時荒廃します。寺宝や古記録の多くも失われたとみられ、現在まで伝わる当時の記録類は過去帳(寺院の死亡者名簿)を残すのみとなっています

  • 1642年
    (寛永19年)

    江戸時代に入ると池田周辺は平和が訪れ、法園寺も再興

    寛永期までに本堂や諸堂が再建され、寺院としての機能を取り戻します。寛永19年(1642年)には、戦国時代の武将で赤松氏の一族だった上月政重(こうづき まさしげ、通称:赤松十大夫政重)が75歳で没し、法園寺に葬られています。彼の供養塔(五輪塔)が境内に残されており、戦乱を生き延びた武将の終焉の地として法園寺が選ばれたことを物語っています。

  • 1668年
    (寛文8年)

    麻田藩の陣屋門を移築した山門が整えられる

    慶安2年(1649年)には梵鐘が新調され、寛文8年(1668年)頃には麻田藩の陣屋門を移築した山門が整えられるなど、江戸前期までに寺観がほぼ復旧しました。

  • 1693年
    (元禄6年)

    観音堂が建立されて伽藍が充実

    江戸中期以降は法園寺は当地の浄土宗寺院の中心的存在として繁栄します。

    江戸時代後期では、法園寺は末寺8ヶ寺を擁し、摂津国における浄土宗寺院の触頭(しょくとう)としての地位も与えられていました。触頭とは、幕府から各地域の寺院を統率・取りまとめる役割を任された寺院のことで、法園寺は摂津国における浄土宗寺院の代表格だったことになります。

  • 1813年
    (文化10年)

    阿波堂(上池田の薬師堂)が法園寺に統合吸収

    これにより、創建当初からの由緒である阿波堂の系譜も正式に法園寺に継承され、寺の歴史的一貫性が保たれました。

  • 1914年
    (大正3年)

    池田史談会(郷土史研究団体)の創立総会が当寺で開催

    昭和戦後期から平成にかけても、地域の檀信徒によって支えられ、八角堂の整備など現代ニーズへの対応も行われました。

  • 1995年
    (平成7年)

    震災を契機に歴史的建造物としての保存と安全性の両立が図られる

    平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災では、震度7の揺れにより本堂・観音堂をはじめ境内建物に甚大な被害が生じました。山門の瓦が落下し、本堂や観音堂の柱や梁にも損傷を受けましたが、後年に本格的な修復工事が行われ、現在は往時の姿に復元されています。震災を契機に耐震補強も施され、歴史的建造物としての保存と安全性の両立が図られました。現在、法園寺は池田市の地域史を今に伝える貴重な寺院として、また檀信徒の精神的拠り所として機能しています。古い堂宇に囲まれた境内には四季折々に花が咲き、往時を偲ばせる静かな佇まいの中で、地域住民や参拝者が先祖供養や法要に訪れる姿が見られます。

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