所在地 | 大阪府池田市神田3丁目11-2 |
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TEL | 072-751-3940 |
山号 | 清光山 |
宗派 | 高野山真言宗 |
本尊 | 十一面千手観世音菩薩(千手観音) |
開山 | 行基菩薩 |
創建 | 天平3年(731年) |
札所等 | 摂津国八十八所巡礼第59番札所 |
常福寺(じょうふくじ)は、大阪府池田市神田にある高野山真言宗の寺院(別格本山)です。奈良時代の天平3年(731年)に行基菩薩が当地に留まり、自ら十一面千手観音菩薩の本尊像を刻んで安置したのが開創と伝えられています。平安時代には第二世の海然大徳が密教の法力を示したことで寺名が高まり、竜池弁財天の勧請や牛頭天王(現在の神田八坂神社の祭神)の降臨伝承(天元2年・979年)も生まれるなど、神仏習合の霊場として発展しました。一条天皇の長徳4年(998年)には勅使の寺社額「清光山」を賜り堂宇が整備されるなど皇室の庇護も受けました。戦国時代に兵火で伽藍を焼失しますが、江戸時代初期に池田氏の手で再興されて現在に至っています。本尊の千手観音立像は平安時代作の貴重な文化財で、他にも不動明王像や釈迦涅槃図など多くの寺宝を有する、創建1300年超の古刹です。
現在の本堂は、戦国期の焼失後、池田城主・池田光重の支援により慶長年間(1596~1615年)に再建されたものです。慶長11年(1606年)正月に本堂が完成した記録が残り、建立の功労者である池田光重からは寺運営のため毎年五十石の寄進がなされ、本尊前では能が奉納されたとも伝えられています。本堂正面の厨子(須弥壇)には十一面千手観音菩薩の本尊が安置されており、平安時代(貞観期、9世紀後半)の作とされ池田市指定文化財に指定されています。この千手観音立像は高さ約160cm(五尺三寸)の等身大仏で寄木造り、頭上で二手(2本の腕)を掌を上に向けて組み、その掌の上に本地仏である阿弥陀如来像を戴くという極めて珍しい様式(清水式)で作られています。
山門は境内入口に構える寺院の正門で、常福寺の玄関口となっています。現在の山門の建立年代は定かではありませんが、江戸時代の再興以降に整えられたものと考えられます。山門を入ると静かな境内が広がり、往時の面影を今に伝えています。鐘楼(鐘楼堂)は江戸時代の天和2年(1682年)に新たに建立されたもので、当時来日中であった中国黄檗宗の僧・高泉が筆を執り梵鐘の銘を書き入れたと伝えられます。この鐘楼は江戸期再興後の常福寺を象徴する建造物で、長らく寺内に残っていました。また境内には古井戸があり、その上屋根には鯱鉾が飾られるなど、寺院ならではの趣深い意匠も見られます。
常福寺は貴重な仏像や絵画など多数の寺宝を所蔵しています。本尊の十一面千手観音菩薩立像は前述のように平安時代作で、その希少な清水式の像容から池田市の重要文化財に指定されています。脇仏・護法善神として、不動明王坐像も安置されています。この不動明王像は桜材とみられる一木造で、頭部から胴体、両手先や両脚部に至るまで一本の木から彫り出され、内刳(中をくり抜く加工)を施していない点が特徴です。寺伝の『清光山常福寺縁起』(慶長16年・1611年)に長徳4年(998年)に常福寺の七堂伽藍が整ったとあることから、この不動明王像も平安時代末~藤原期(10世紀末頃)の造立と考えられています。不動明王は大日如来の化身とされる像で、右手に三鈷剣、左手に羂索(縄)を持ち、体から炎を発して諸悪を焼き尽くす忿怒の姿に表現されています(同像も池田市指定文化財)。また寺宝の絵画としては、室町時代初期と推定される「釈迦涅槃図」を所蔵しています。この涅槃図は釈迦入滅の情景を描いたもので、池田市内に現存する涅槃図として最古の作品です。絵中の釈迦如来の横たわる姿には古様が残る一方、周囲に嘆き悲しむ弟子や動物たちが多数描かれるなど、中世以降の様式も併せ持つ点が特色です(京都・醍醐寺所蔵の涅槃図との類似も指摘されています)。そのほか境内には、藤原景正が建立した十三重石塔の礎石が残されています。この石造宝塔基礎は一辺78.5cm・高さ39cmの角柱状で、鎌倉時代の宝篋印塔の基礎部分と考えられ、数少ない中世石造物として池田市指定文化財となっています。
731年
(天平3年)
行基菩薩が当地に留錫(りゅうしゃく)し、一宇を建立して自ら十一面千手観音菩薩像を刻んで安置したのが始まりとされています。開基の行基は聖武天皇の時代に活躍した高僧で、大和・河内を中心に各地で寺院や社会事業を行ったことで知られ、常福寺もその行基創建伝説を持つ寺院の一つです。
平安時代ー
常福寺は真言密教の道場として隆盛しました。二世住職の海然大徳は密教の奥義を極め、多くの霊験談を残したため、周囲の諸寺院も感化されてこの頃から真言宗に帰依するようになったと伝えられます。
979年
(天元2年)
牛頭天王は疫病除けの神で、後に神田八坂神社の祭神となっています。このように平安期の常福寺は、寺院に弁財天(竜池弁財天)を勧請し境内で祀るなど神仏習合色が強く、仏教と神祇信仰が融合した霊場として信仰を集めました。
998年
(長徳4年)
この勅額山号「清光山」の賜与により、常福寺は皇家の祈願所的な格式を帯び、当時七堂伽藍の造営が完了したとも伝えられます。
1000年頃
(長保年間)
源頼義の奏請により白河天皇(白河院)から修復の勅命が下り、藤原景正が寺の修復にあたったと伝えられます。藤原景正は武勇で名高い鎌倉権五郎景正に比定される人物で、彼が建立した十三重石塔の礎石が現在も境内に残ることから、この時期に大規模な整備が行われたことが窺えます。
1301年
(正安3年)
このように中世を通じて朝廷や武家の庇護の下、常福寺は幾度かの再興・修復を経ながら信仰を集め続けました。
1578年
(天正6年)
摂津国で有力大名の荒木村重が織田信長に反旗を翻す事件(有岡城の戦い)が起こると、常福寺の僧徒もこれに同調し有岡城に籠城したとの風聞が立ちました。これを聞いた織田信長は激怒し、翌天正7年(1579年)10月の有岡城落城の際、常福寺を兵火によって焼き払わせています。さらに常福寺が領有していた豊島郡・能勢郡内の寺領七か所や荘園の田地もことごとく没収され、戦国期において常福寺は壊滅的な被害を受けました。焼失後、僧たちは焼け跡に草庵を三棟結んで本尊を雨露から守りつつ難儀を忍んだといいます。
1602年
(慶長7年)
光重自筆の寄進状が出され、常福寺中坊跡の藪一円の年貢を免除する措置が取られています。
1606年
(慶長11年)
光重は願主(発起人)として寺に深く関わり、寺の維持運営のため毎年米五十石を寄進し、毎月本尊前で能楽を催すなど手厚い保護を与えたと伝わります。こうして江戸初期に本堂をはじめ諸堂が再建され、常福寺は再び寺観を整えました。
1682年
(天和2年)
中国から来日中であった黄檗宗の高泉禅師が梵鐘の銘文を記したことが記録されています。しかし江戸後期から幕末にかけて常福寺の勢いは次第に衰退していきました。
1903年
(明治36年)
明治維新後の廃仏毀釈の荒波の中、常福寺も例に漏れず変遷を余儀なくされます。江戸時代まで常福寺を支えていた塔頭(たっちゅう)三院は明治期に相次いで本寺に合併され、また末寺のいくつかも廃絶するなど、寺勢は縮小を余儀なくされました。しかし明治36年(1903年)から昭和28年(1953年)まで住職を務めた中興の祖・孝順和尚の尽力により、境内の旧伽藍跡地の整備統合が進められ、近代以降の常福寺は再び安定した寺観を取り戻しています。現代において常福寺は、池田市内でも由緒ある古寺として地域に根付き、法要や行事を通じて信仰を集めています。毎年1月の大般若転読法要や8月の大施餓鬼会などの年中行事も行われ、1300年を超える歴史を今に伝える貴重な文化遺産となっています。