所在地 | 大阪府池田市鉢塚2丁目7−26 |
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TEL | 072-761-8918 |
山号 | 多羅山 |
宗派 | 高野山真言宗 |
本尊 | 聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ) |
創建 | 神亀元年(724年) |
開基 | 行基菩薩 |
札所 | 摂津国八十八箇所 第58番札所 |
一乗院(いちじょういん)は、大阪府池田市鉢塚にある高野山真言宗の仏教寺院です。奈良時代の神亀元年(724年)、聖武天皇の勅願によって僧・行基が開いたと伝えられる古刹で、平安時代の弘仁5年(814年)には弘法大師(空海)が当地に留錫し、本尊の聖観世音菩薩像を含む三体の仏像を自ら彫刻して安置したと伝承されています。戦国武将・石田三成の遺児にまつわる「石田三成軍旗塚」という史跡が残されている寺としても知られています。
一乗院の山門(東門)は常時開放されており、正面から境内に入ることができます。境内に入って左手を見ると、樹齢を重ねた大きなイチョウの木と、その隣に白く塗られた鐘楼が建っています。この鐘楼には梵鐘が吊るされており、境内に趣を添えています。門前から見て右手(北側)には後述の融通尊堂が位置しています。
正面奥に建つ本堂は一乗院の中心となる堂宇で、内部には本尊の聖観世音菩薩立像が安置されています。聖観世音菩薩像は平安時代作と伝わる木造仏像で、池田市指定有形文化財(彫刻第7号)に指定されています。本堂にはこのほか平安時代作の木造多聞天立像(毘沙門天、池田市指定彫刻第8号)も安置されており、これら貴重な仏像は寺院の長い歴史を今に伝えるものとなっています。
本堂向かって右手(南側)には「融通尊堂」(ゆうづうどう)と呼ばれる堂宇が建ち、室町時代作とも伝わる雨宝童子(うほうどうじ)像が安置されています。雨宝童子像は大日如来の化身であり16歳の天照大神の御姿ともいわれる尊像で、弘法大師が彫刻し奉納した三体のうちの一つと伝えられています。この雨宝童子は「融通尊」とも称され、「どんな事でも融通して下さる仏様」として篤い信仰を集めています。現在、一乗院の雨宝童子立像は鎌倉時代作の貴重な木像として池田市指定有形文化財(彫刻第3号)に指定されています。
境内には歴史的史跡である「石田三成軍旗塚(いしだみつなり ぐんきづか)」と呼ばれる石碑が建立されています。昭和36年(1961年)12月に建てられたもので、関ヶ原の戦いで敗れた石田三成の遺児・石田重成(通称:千代丸)にまつわる伝説を後世に伝える記念碑です。三成の子・千代丸は家臣や乳母に連れられてこの地(尊鉢の里)に落ち延びたとされ、後年の享和元年(1801年)に末裔を称する商人・大和屋彦兵衛が三成旧蔵の軍旗を菩提寺である一乗院に納めたと伝えられています。その故事にちなみ建立された軍旗塚は、石田一族と当地とのゆかりを示す象徴となっています。現在でも寺の周辺には「石田さん」といった姓の家が多く残っているといわれ、この伝承が地域に色濃く息づいていることが窺えます。
724年
(神亀元年)
当初は若王寺(にゃくおうじ)という大寺院の塔頭(たっちゅう)の一つとして建立され、同じく若王寺の塔頭であった釈迦院とともに尊鉢の里に寺領を構えていました。開基(創立者)は行基菩薩と伝えられ、行基が各地で社会事業や寺院建立に尽力していた時期にあたります。
814年
(弘仁5年)
その際、空海は一乗院の本尊となる聖観世音菩薩像のほか、雨宝童子像および春日竜神像の三体の神仏像を自ら彫刻して奉安したとされます。これらの像はいずれも一乗院に代々伝来し、現在では池田市指定文化財に指定される貴重な遺産となっています。
1573年
(天正元年)
同じ頃、母体であった若王寺そのものも焼き滅んだとされ、一乗院は一時荒廃しました。
1638年
(寛永15年)
江戸時代に入って寺運は再興します。
1801年
(享和元年)
石田三成の没落後、乳母に守られて落ち延びた千代丸は尊鉢の里で成長し、石田四郎右衛門と名を改めて正保3年(1646年)に亡くなったと伝えられます。その子孫を称する大和屋彦兵衛が先祖の遺品である軍旗を一乗院に収め、以後当寺が石田一族の菩提寺となったと伝承されています。
1834年
(天保5年)
堂宇の修復・整備が行われました。
1961年
(昭和36年)
創建から数えて実に1300年近い歴史を持つ一乗院は、現在も池田市鉢塚の地で信仰を守り続けており、摂津国八十八箇所霊場の第五十八番札所として多くの参拝者が訪れる寺院となっています。