所在地 | 大阪府池田市古江町387 |
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TEL | 0727518542 |
宗派 | 曹洞宗 |
山号 | 鼓瀧山 |
本尊 | 釈迦牟尼仏 |
創建 | 永禄5年 |
開基 | 曇清(どんせい) |
札所 | 摂津国北部三十三所観音霊場第9番札所 |
無二寺(むにじ)は、大阪府池田市古江町にある曹洞宗の寺院で、鼓瀧山(ころうざん)を山号とします。戦国時代の永禄5年(1562年)に僧・曇清(どんせい)によって開かれた寺で、平安時代の歌人・和泉式部の墓所(供養塔)が残る寺として知られています。境内には「しのぶ梅」と呼ばれる梅の古木があり、植木の産地として知られる古江地区らしい風情を伝えています。また無二寺は摂津国北部三十三所観音霊場の第9番札所であり、観音信仰とも縁が深いお寺です。
無二寺の本堂は正面に向拝をもつ伝統的な仏堂建築で、内陣に本尊の釈迦牟尼仏を安置しています。本尊の脇には観音菩薩などの仏像も祀られ、観音霊場の札所にふさわしく十一面観音立像(木造・12世紀末頃作)も伝えられています。この十一面観音像は平安時代末期の作とされ、元は当寺の前身である等覚寺に由来する仏像とも考えられます。ほかにも室町時代初期制作とみられる木造地蔵菩薩立像や、武神である毘沙門天立像などが安置されており、寺の長い歴史を今に伝える貴重な文化財となっています。
山門は境内正面に構える切妻造瓦葺きの門で、鼓瀧山無二寺の扁額が掲げられています。両脇に柱を立てただけの簡素な棟門ですが、周囲の緑と相まって趣ある佇まいです。石畳の参道からこの山門をくぐると正面に本堂が見え、境内は静かな雰囲気に包まれています。現在の山門が建立された年代は定かではありませんが、寺伝や形態から江戸時代以降に再建・整備されたものと考えられます。
本堂裏手の墓域には宝篋印塔(ほうきょういんとう)と呼ばれる石塔が建っています。高さ約2.05メートルに及ぶ立派な石塔で、塔身や笠(屋根石)、相輪など塔の各部が完全な姿で遺存する貴重な例です。塔の基礎部分北東側面に「貞和五年(1349年)五月三日」と刻まれており、南北朝時代にあたる年号が残されています。これは北朝の年号であり、この塔の建立当時、池田周辺が北朝方の勢力下にあったことを示すものです。塔の四隅には蓮華座上に渦巻状の蕨手文(わらびてもん)を表現した珍しい隅飾りが付されており、全国的にも類例の少ない意匠とされています。伝承では、この宝篋印塔は平安時代の女流歌人・和泉式部の供養塔であると伝えられています。和泉式部が晩年を当地で過ごしたとの言い伝えに基づき、「和泉式部の墓」として地元で古くから崇敬を集めてきました。その故事にならい、「塔のそばを通った猟師は獲物がとれなくなる」という言い伝えも残されています。この宝篋印塔は1977年(昭和52年)に大阪府指定有形文化財に指定されており、無二寺を代表する文化財となっています。
無二寺が所蔵する主な仏像には、前述の十一面観音立像(平安時代末期)と地蔵菩薩立像(室町時代初期)のほか、本尊の釈迦如来坐像、および毘沙門天立像などがあります。これらの木彫仏は池田市の文化財調査でも把握されており、特に十一面観音像はその古さから当地の信仰史を語る上で重要な遺品です。現在はいずれも本堂内に安置され、参拝者は堂内でこれらの仏像を拝観することができます(ただし秘仏の場合や特別拝観日以外は厨子の扉が閉じられている場合もあります)。
1184年
(寿永3年)
奈良時代、この地には僧・行基菩薩が開いたと伝わる「海光山 等覚寺」という寺院があったといいます。しかし平安時代末期の寿永3年(1184年)に源平合戦の戦火(寿永の乱)の巻き添えとなり、等覚寺は焼失して廃寺となりました。以後、長く荒廃していた古江の地ですが、中世末までに周辺には和泉式部の伝説などが語り継がれるようになります。
1562年
(永禄5年)
戦国時代の永禄5年(1562年)、僧の曇清(どんせい)が廃絶していた等覚寺跡に新たに禅寺を建立しました。これが現在まで続く瑞光山 無二寺の開創と伝えられています。開基となった曇清は詳細不明ですが、摂津国に曹洞宗を布教した僧の一人と考えられ、寺は池田氏や周辺の人々の帰依を受けて存続しました。当初は「無二庵」とも称され、小寺ながらも地域の信仰の拠り所となっていきます。
1798年
(寛政10年)
江戸時代後期、寛政10年(1798年)刊行の地誌『摂津名所図会』に「古江村無二庵に和泉式部の塔あり」と記されました。それによれば和泉式部は平安時代に源頼光の四天王の一人である平井保昌の妻となりこの古江の地に住んでいたといいます。そして或る秋の夜、鹿の鳴き声を聞いて狩りに出ようとする夫・保昌に対し和泉式部が「ことわりや、いかでか鹿の鳴かざらん。今宵限りの命と思へば」と詠んで諫めたところ、保昌は心を打たれてそれ以後狩猟をやめたという逸話が紹介されています。無二寺境内の石塔をこの和泉式部にちなむ供養塔とする伝承はこの頃にはすでに定着していたことがわかり、和泉式部ゆかりの寺として寺は広く知られるようになりました。
1977年
(昭和52年)
昭和期に入ると、無二寺の歴史的価値が再評価されました。中でも南北朝時代建立の宝篋印塔は石造美術として高く評価され、1977年(昭和52年)3月31日付で大阪府指定有形文化財に指定されました。指定にあたり行われた調査では、塔身に刻まれた梵字や稀少な意匠が学術的にも注目されました。以降、地域の郷土史研究や観光案内でも無二寺の宝篋印塔と和泉式部伝説が紹介されるようになり、池田市内の貴重な文化遺産の一つとして保存・顕彰が図られています。