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法正寺ほうしょうじ

大阪府池田市神田にある、浄土真宗本願寺派の由緒ある寺院

所在地 大阪府池田市神田3丁目17-4
山号 清光山(せいこうざん)
宗派 浄土真宗本願寺派(西本願寺)
本尊 阿弥陀如来
創建 寛永年間(17世紀前半)

行基の霊場伝承と藤阪一族の尽力が刻む法正寺の歴史と信仰

清光山法正寺(せいこうざん ほっしょうじ)は、大阪府池田市神田3丁目にある浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺院です。奈良時代の天平3年(731年)に行基菩薩が当地で千手観音菩薩を刻んだ霊場が起源と伝えられ、平安時代の長徳4年(998年)には「清光山」の山号を勅賜された古刹の流れを汲む寺域に位置しています。現在の法正寺は江戸時代初期の寛永年間(1624~1644年)に当地の郷民・藤阪恵掌(ふじさかえしょう)が西本願寺第12世宗主の准如上人に帰依し、この地(当時は字中野)に草庵を結んだことに始まります。以後、江戸中期に現在地へ移転し、本堂を再建するなど整備が進められました。境内には江戸時代後期建立の本堂が現存し、浄土真宗寺院として地域に根ざした法要や行事(永代経・報恩講など)も受け継がれています。

  • 本堂

    法正寺の本堂は、江戸時代後期の天明3年(1783年)に建立された木造建築です。開基の藤阪恵掌の一族にあたる藤阪仁兵衛が発願主となり、一人で現在の堂宇を建立したと伝えられています。入母屋造り瓦葺きの伝統的な意匠を備えた本堂で、正面に向拝(玄関屋根)を構え、内部には本尊阿弥陀如来を安置しています。江戸期の再建以来、適宜修復を重ねながら当時の趣きを保っており、堂内では法要の際に荘厳な阿弥陀堂空間が広がります。

  • 山門

    山門は寺院の正面入口にあたる門で、本堂と同じく江戸時代に建立されたものと考えられます。規模は大きくありませんが、切妻屋根または袖壁付きの簡素な構えで、境内への入口を示す役割を果たしています。門柱や梁には古色が感じられ、長年地域の人々を迎え入れてきた歴史を物語ります。山門をくぐると正面に本堂が望まれ、左手には後述の石碑などが見られます。

  • 仏像

    本堂に安置される本尊は阿弥陀如来像です。開創時に本願寺から下付されたものか、あるいは藤阪恵掌が自ら迎え入れた阿弥陀仏と伝えられ、江戸時代初期の作と考えられます。阿弥陀如来は浄土真宗におけるご本尊であり、法正寺でも御堂中央の厨子に安置されて門信徒の礼拝対象となっています。また、本尊脇には親鸞聖人や蓮如上人の御影(画像)など浄土真宗の寺院らしい仏画・仏像が祀られている可能性があります(一般には非公開)。なお、境内には本尊とは別に藤阪仁兵衛頌徳碑(後述)などの石造物もあり、寺の歴史を今に伝えています。

法正寺のあゆみ

  • 731年
    (天平3年)

    行基菩薩の霊場伝承

    奈良時代の天平3年(731年)、聖武天皇の勅願により行基菩薩が当地に留まり、一宇を建立して自ら千手観世音菩薩像を彫刻・安置したと伝えられています。この伝承上の寺院は後に若王寺とも称され、神仏習合の霊場として発展しました。平安時代には円融天皇の天元2年(979年)に牛頭天王(素戔嗚尊)を勧請するなど寺運興隆し、一条天皇の長徳4年(998年)には「清光山」の勅額(山号)を賜っています。中世以降も源頼義や北条貞時らの修造を経て繁栄しましたが、安土桃山時代の天正6年(1578年)に兵火で堂宇が焼失しました。その後、池田城主・池田光重の尽力で慶長年間(1596~1615年)に本堂以下諸堂が再建され、この地の仏教信仰は守られました(以上は同じ神田地区に現存する真言宗寺院・清光山常福寺に伝わる縁起)。法正寺は後述の通り江戸時代に創建された浄土真宗の寺院ですが、これら古代から中世の霊場伝承を背景として同じ「清光山」の山号を継承し、当地の歴史的宗教文化を今に伝える存在となっています。

  • 1630年
    (寛永7年)

    藤阪恵掌による法正寺開基

    戦国期から江戸初期にかけて浄土真宗の教えが広まる中、池田の郷土民であった藤阪恵掌は西本願寺第十二代門主・准如上人に帰依しました。寛永年間(1624~1644年)に恵掌は現在の池田市神田付近(当時の字「中野」)に小さな草庵を結び、阿弥陀如来を安置して念仏道場としたのが法正寺の起こりです。恵掌は出家して開基住職となり、浄土真宗の布教に励みました。当初は質素な庵でしたが、門徒(信徒)も次第に集まり始め、ここに浄土真宗の一寺が創立されました。法正寺創建の背景には、地域住民が戦乱や飢饉の多かった時代に阿弥陀仏の救いを求めたことや、先述の古い霊場の存在が人々の信仰土壌としてあったことが挙げられます。

  • 1751年
    (宝暦元年)

    現在地への移転と堂宇落慶

    法正寺は開基から数世代の間は草庵規模の小堂でしたが、江戸中期、第3世住職教誓の代になると現在の神田3丁目の地に寺基を移すことになりました。詳細な経緯は不明ながら、元は常福寺の境内の一角だった場所を譲り受ける形で移転整備が進められたとも考えられます。宝暦元年(1751年)8月13日、第6世住職智励の代に本堂の落慶法要が営まれ、移転後の堂宇建立がひとまず完成を見ました。この時点で寺観も整い、従来の草庵から本格的な寺院として再出発を遂げています。宝暦期の堂宇は比較的小規模でしたが、地域門徒の寄進や協力により建立されたもので、阿弥陀堂としての体裁を整えていました。

  • 1783年
    (天明3年)

    現本堂の建立(藤阪仁兵衛の尽力)

    宝暦期に落慶した堂宇からさらに約30年後の天明3年(1783年)、現在まで残る本堂が建立されました。この本堂建立にあたっては、開基一門の子孫にあたる藤阪仁兵衛が大きく貢献しています。仁兵衛は法正寺門徒の篤信者であり、自身の資財を投じて「現今の堂宇を一人にて建立」したと伝えられています。完成した本堂は従前のものより規模が拡大され、格式ある阿弥陀堂となりました。江戸後期の建立当初はまだ新しい檜皮色の柱や瓦であったものが、時代を経て風格を増し、以後約240年にわたり法正寺の本堂として機能しています。仁兵衛の尽力によって堂宇が整備されたことで、法正寺は池田地域の浄土真宗寺院として盤石の基礎を築き、こののち明治・大正期を通じて寺運は安定していきました。

  • 1932年
    (昭和7年)

    藤阪仁兵衛頌徳碑の建立

    昭和初期、法正寺の歴史的功労者である藤阪仁兵衛を顕彰するため、境内に頌徳碑(顕彰碑)が建立されました。昭和7年(1932年)建立の「藤阪仁兵衛頌徳碑」は高さ数メートルほどの石碑で、正面に仁兵衛の遺徳を称える碑文が刻まれています。この碑は本堂前の一角に据えられ、門徒や訪問者の目に留まる形で建てられています。仁兵衛没後約150年を経て建立されたもので、寺史に残る寄進者への感謝と顕彰の意を表しています。以降も法正寺では門徒による維持・運営が続けられ、昭和・平成の時代を通じて本堂の修復や境内整備、諸行事の継承が行われています。平成15年(2003年)には現住職が住職に就任し、現在も地域に開かれた寺院活動を展開しています。

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