所在地 | 大阪府池田市豊島南2-3-10 |
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TEL | 0727620938 |
山号 | 龍華山(りゅうげざん) |
宗派 | 浄土真宗本願寺派 |
本尊 | 阿弥陀如来立像 |
創建 | 天正元年(1573年) |
受楽寺は、大阪府池田市豊島南にある浄土真宗本願寺派の仏教寺院で、山号は龍華山です。天正元年(1573年)に創建された古刹で、本尊の阿弥陀如来立像(室町時代末期作)を安置しています。旧西国街道沿いに位置し、江戸時代には寺の前に高札場(掲示板)が設けられたと伝えられる歴史ある寺院です。また、明治以降の上方落語で名を馳せた「春団治」一門とゆかりが深く、境内には三代目春団治によって建立された「春団治碑」があります。
現在の本堂は江戸時代中期に再建されたもので、建立後200年以上が経過しています。創建当初の本堂は元禄年間(1688~1704年)に発生した火災で全焼し、当時の本尊阿弥陀如来像も頭部だけを残して焼失しました。その後、本堂は再建され、平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災では大きな被害を受けましたが、修復を施して現在に至ります。市街地にありながら境内規模は大きく、重厚な入母屋造りの屋根が遠目にも目立つ堂宇です。
受楽寺の山門は旧西国街道に面して建ち、寺域の正面入口となっています。現在の山門の詳細な建立年代は不明ですが、江戸時代には受楽寺付近に公式の高札場が設けられていたことから、当時から地域の要所であったと考えられます。門前には往時の街道の雰囲気が残り、寺院と地域の歴史的つながりを今に伝えています。
本堂に安置されている本尊は阿弥陀如来立像で、室町時代末期の作と伝えられます。像高は約55.5センチメートルで檜材製の寄木造りです。頭部と体部の大きさのバランスにやや不自然さがあり、頭部は創建の年である天正元年(1573年)に作られ、体部は後世に補われた可能性が指摘されています。これは元禄年間の火災で頭部のみが焼失を免れ、後に新たな体部に据えられたためではないかと考えられています。本尊の両脇には江戸時代作の親鸞聖人と蓮如上人の絵像も安置されており、真宗寺院としての信仰的伝統がうかがえます。
受楽寺の梵鐘(寺の鐘)は、太平洋戦争中の金属類回収令により一時供出され失われました。その後、昭和46年(1971年)になって新たに鋳造されたものが現在の梵鐘として吊るされています。鐘楼に据えられた梵鐘は、戦禍を乗り越えて復元された寺宝として大切に護持されています。
1573年
(天正元年)
天正元年(1573年)、伊那部氏の子孫である稲津太一郎が出家して受楽寺を開創しました。伊那部氏は古代ヤマト朝廷で木工技術により仕えた豪族であり、その末裔であった太一郎が仏門に入り開基となったものです。創建当初は小規模な草庵から始まったと考えられますが、後に地域の浄土真宗寺院として発展しました。
元禄年間
(1688~1704年)
江戸時代中期の元禄年間に寺内で火災が発生し、創建当時からの本堂が全焼しました。この火災で本尊阿弥陀如来像の頭部以外が焼失したと伝わり、その後、本堂と本尊の体部が改めて再建・補作されています。現存する本堂はこの元禄期以降に建て直されたもので、以降も度重なる修復を経て現在まで維持されてきました。
幕末期
(19世紀後半)
幕末から明治初期にかけて、受楽寺は地域の寺子屋(寺院学校)としての役割も果たしました。池田地域には多数の寺子屋があり、受楽寺もその一つとして、近隣の子どもたちに読み書きや算術など初等教育を提供していたとされています。これは近代的な学校制度が整う以前、寺院が教育の場となっていた時代の姿を今に伝えるエピソードです。
1943年
(昭和18年)
第二次世界大戦中の昭和18年前後、政府の金属回収政策により、受楽寺の梵鐘が供出されました。多くの寺院と同様に貴重な青銅製の梵鐘は軍需物資として提供され、一時寺から姿を消すことになります。その結果、戦後しばらくの間、受楽寺では鐘の音が途絶えることになりました(戦時中の梵鐘供出)。
1971年
(昭和46年)
昭和46年(1971年)、失われていた梵鐘が新たに鋳造され、受楽寺に再び鐘の音が戻りました。この新しい梵鐘は、戦前の鐘に代わるものとして建立され、以後、朝夕の時を告げる役割を担っています。戦争による被害から復興した象徴として、現在も大切に撞かれ続けています。
1995年
(平成7年)
平成7年(1995年)1月17日に発生した阪神・淡路大震災では、池田市内の受楽寺も建物に大きな被害を受けました。特に本堂の瓦や壁に甚大な損傷が生じましたが、その後の修復工事によって元の姿を取り戻しています。この震災復旧により耐震性も強化され、現在では当時の被災の痕跡はほとんど見られません。
1998年
(平成10年)
平成10年(1998年)8月、三代目桂春団治(上方落語の名跡)が中心となり、「春団治碑」が受楽寺境内に建立されました。二代目春団治が受楽寺第17世住職と深い親交を持っていた縁で、三代目春団治も第19世住職と交流を持つようになり、初代・二代の春団治両名の遺徳を偲ぶ碑を建立したものです。初代春団治の遺骨が所在不明となったことへの哀惜の念も込められており、この碑の建立以降、受楽寺は「春団治ゆかりの寺」として広く知られるようになりました。毎年ゴールデンウィーク頃に石橋商店街で開催される春団治祭りでは、受楽寺で春団治一門による法要も行われ、地域の文化行事として定着しています。