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正光寺しょうこうじ

大阪府池田市住吉にある、浄土真宗本願寺派の歴史薫る寺院

所在地 大阪府池田市住吉1丁目9-20
TEL 0727617369
宗派 浄土真宗本願寺派(西本願寺)
山号 東光山
本尊 阿弥陀如来立像
開基(創立者) 浄了(浄土真宗本願寺派第12世准如上人の弟子)
創建年 慶長年間(1596~1615年)

夜泣きの中納言石と英国人墓が伝える正光寺の物語

正光寺(しょうこうじ)は、大阪府池田市住吉にある浄土真宗本願寺派の寺院で、山号は東光山です。江戸時代初期に開かれ、約400年の歴史を有する古刹であり、境内には「夜泣きの中納言石」や英国人エドワード・ハンターの娘の墓といったユニークな史跡が残されています。浄土真宗の寺院として阿弥陀如来を本尊とし、地域の人々に親しまれてきました。

  • 本堂

    正光寺の本堂は木造平屋建ての仏堂で、正面に本尊を安置する浄土真宗寺院の礼拝空間です。創建当初から幾度か建て替えや修理を経ており、江戸時代には元禄年間に再建記録が残ります。近代では前述のように大正3年(1914年)に大改修が施されており、現在の本堂はその時期の面影を伝えるものとなっています。内部には後述の本尊阿弥陀如来像をはじめとする貴重な仏教絵像が祀られており、質実な中にも浄土真宗寺院らしい荘重さを感じさせます。

  • 山門

    山門は境内正面に構える門で、切妻造の薬医門形式と推定されます。現在の山門は江戸時代に当地を治めた麻田藩の陣屋門を移築したものと伝えられており、質素ながら歴史的な意義を持つ建造物です。麻田藩青木氏の居館にあった門を再利用しているため、武家屋敷の雰囲気を残しつつ寺院の玄関口としての役割を果たしています。明治期の廃藩置県後に移されたと考えられ、正光寺の長い歴史の中で近世の記憶を今に伝える存在です。

  • 本尊と寺宝

    本堂内陣には阿弥陀如来立像がご本尊として安置されています。阿弥陀如来は浄土真宗における本仏であり、正光寺でも門徒の信仰の中心です。その両脇には、浄土真宗の開祖である親鸞聖人と中興の祖蓮如上人、そして近代の本願寺法主明如上人の御影(絵像)が祀られています。さらに、親鸞が尊崇したインド・中国・日本の高僧七人の姿を描いた七高僧の絵像や、日本仏教の礎を築いた聖徳太子の絵像も安置されています。これらの寺宝は、正光寺が浄土真宗の教えと伝統を継承していることを示す貴重な文化財となっています。

  • 夜泣きの中納言石

    境内には、藤原峰嗣ゆかりの大石である夜泣きの中納言石が安置されています。石の側面には「中納言菅原峰嗣休憩石」と刻まれた石柱が立ち、峰嗣が腰掛けた石との伝承を今に伝えています。かつてこの石を巡って起きた不思議な伝説(夜ごとすすり泣いたという怪異)は前述のとおりで、正光寺の名を全国に知らしめる由来話にもなっています。石自体は一見すると何の変哲もない自然石ですが、人々が長年叩いた痕跡で表面に小さなくぼみが多数残っており、その伝承の痕跡を現在もうかがうことができます。夜泣きの中納言石は地域の歴史文化遺産として池田市の史跡ガイドでも紹介されており、正光寺を訪れた人々に平安時代から伝わる物語を静かに語りかけています。

  • エドワード・ハンターの娘の墓

    本堂裏手の墓地には、明治時代の実業家エドワード・ハンターの娘の墓碑がひっそりと佇んでいます。墓石には「若林金子」と刻まれており、これがハンター氏の娘の日本名です。彼女は大正12年(1923年)に亡くなり、浄土真宗の門徒として正光寺に葬られました。異国出身の父を持つ女性の墓がこの地にあることは珍しく、池田市の郷土史資料『池田の史跡』にも取り上げられています。ハンター氏は大阪鉄工所(後の日立造船)を創業した人物であり、娘の墓は明治期の近代化と国際交流の一端を物語る存在ともいえるでしょう。残念ながら建立の経緯について詳しい資料は残っておらず、その謎めいた背景も含めて人々の関心を集めています。

正光寺のあゆみ

  • 870年
    (貞観12年)

    起源

    正光寺の起源は平安時代中期の貞観12年(870年)頃にさかのぼると伝えられています。この頃、藤原氏の一人で淳和天皇に侍医として仕えた藤原峰嗣(ふじわら の みねつぐ)という人物がこの地に隠棲し、薬草園を開いて暮らしていたといいます。峰嗣は毎日、境内にある大きな石の上に腰掛けて休息していたとされ、後にその石は「中納言(峰嗣の官位)休息石」と呼ばれるようになりました。この伝承にちなみ、正光寺は薬草と石にまつわる古い歴史を持つ寺とされています。

  • 慶長年間
    (1596~1615年)

    創建

    戦国時代~安土桃山時代を経た慶長年間、浄土真宗本願寺派第12世法主である准如上人の弟子浄了によって正光寺が開かれました。豊臣秀吉の没後から大坂の陣に至る動乱期にあたるこの時期、浄了は当山に阿弥陀如来を奉じて伽藍を建立し、正光寺を創建したと伝えられます。これにより、正光寺は浄土真宗本願寺派の寺院としての歴史を正式に歩み始めました。

  • 1803年
    (享和3年)

    洪水による移転

    江戸時代後期の享和3年(1803年)、当時箕面川の近く低地にあった正光寺は大洪水に見舞われ、堂宇が流失してしまいました。この災害を受けて、村人たちは寺を現在の住吉1丁目の地(旧・中之島村の高台)へと移転再建しました。しかし移転後の寺運は安定せず、一時期は住職不在(無住)が続いたり、寺が廃絶状態(廃寺)となったこともあったといいます。それでも地元の門徒に支えられ、後に寺は再興され現在まで存続しています。

  • 1914年
    (大正3年)

    本堂の改修

    明治・大正期にかけて、正光寺の伽藍は再整備が行われました。その一環として大正3年(1914年)に本堂の大規模な改修・増築工事が実施されました。老朽化していた堂宇が補修されたことで、正光寺の本堂は近代以降も信仰の場として維持されました。なお、山門についてもこの頃までに整備されており、明治期に廃藩となった麻田藩邸の陣屋門を移築して山門としたと伝えられています。

  • 1923年
    (大正12年)

    ハンター氏娘の墓の建立

    大正時代になると、正光寺の境内には意外な歴史を持つ墓碑が建立されました。それはエドワード・ハンター氏の娘の墓です。ハンター氏は明治期の実業家で、大阪における最初の民間重工業「大阪鉄工所」(のちの日立造船の前身)を創立した人物として知られます。その娘である若林金子(わかばやし かねこ)氏が大正12年(1923年)に没し、正光寺の墓地に埋葬されました。英国人の血を引く女性の墓が浄土真宗の寺院に置かれているのは珍しく、池田市教育委員会の郷土史資料にも史跡として紹介されています。ただし、なぜ彼女の墓が当地にあるのか詳しい経緯を示す資料はなく、理由は明らかになっていません。

  • 1925年
    (大正14年)

    中納言石と中納言祭

    昭和に入る直前の大正14年(1925年)、正光寺は前述の「夜泣きの中納言石」を境内に正式に迎え入れました。この石は藤原峰嗣ゆかりの「中納言休息石」として古くから伝承されてきたもので、江戸時代末期には隣接する麻田藩主・青木氏が庭石にしようと持ち去ったところ、夜ごと「元の場所に帰りたい…」とすすり泣く怪異が起きたという逸話で知られます。恐れをなした藩主は石を元の辻(中之島村の高札場跡)へ戻させると、石は泣き止んだと伝えられました。その後しばらく忘れ去られていましたが、大正14年になって当時の住職が発願し村の若者達が念仏を唱えながら寺へ運び入れたのです。石のそばには同年に由来を記した石柱が建てられ、以後毎年2月23日を「中納言祭」と定めて村人総出で石を囲み、小石で石を叩いて「南無阿弥陀仏」を唱えたり飲食歓談する素朴な祭りが行われるようになりました。石の表面には人々が小石で叩いた痕跡の小さなくぼみが残っており、この祭りは昭和戦後まで続けられましたが、現在では途絶えています。

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