所在地 | 大阪府池田市綾羽1-4-10 |
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TEL | 0727512303 |
宗派 | 浄土真宗本願寺派(西本願寺) |
山号 | 大西山 |
本尊 | 阿弥陀如来立像(伝・元和年間作) |
開山 | 道空(どうくう) |
創建 | 永正6年(1509年) |
弘誓寺(ぐぜいじ)は、大阪府池田市綾羽にある浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺院で、山号は大西山です。永正6年(1509年)に池田城主・池田氏の一族である僧・道空によって創建され、池田氏の菩提寺としての役割を果たしました。本尊に阿弥陀如来立像を安置し、狩野派絵師による襖絵など数々の文化財を有しています。中でも山門と鐘楼が一体化した楼門(鐘楼門)は元禄年間に建立された珍しい建築物で、境内には熊の恩返し伝説で知られる「熊塚」も残されています。
弘誓寺の本堂は、江戸時代の延宝6年(1678年)に再建されたものです。創建当初から寺の本堂として阿弥陀如来を安置する礼拝の中心となっています。内部には、狩野派の絵師・勝部如春斎によって描かれた襖絵八面「松楓に孔雀・松桜に孔雀」があり、江戸時代中期(1770年頃)の作品で池田市指定の重要文化財です。これらの襖絵は内陣と外陣を仕切る襖に描かれ、現在は毎年11月の文化の日に一般公開されています。
山門は鐘楼と一体化した二階建ての楼門形式で、非常に珍しい建築です。元禄3年(1690年)に建立されたもので、門の二階部分に梵鐘が吊るされています。同寺には元禄3年当時の楼門建立を記録した木版が残されており、この楼門の由緒を今に伝えています。現在も寺の正門として風格ある姿を保ち、市内屈指の歴史的建造物となっています。
本堂に安置されている本尊は、木造の阿弥陀如来立像です。制作年代は明確ではありませんが、一般には江戸時代初期の元和年間(17世紀初頭)頃の作と伝えられています。優しい表情で立つ阿弥陀如来像の左右には、浄土真宗の宗祖である親鸞聖人と中興の祖である蓮如上人の肖像画が配されており、本山・西本願寺の教えとのつながりを象徴しています。阿弥陀如来立像は寺の信仰の中心であり、長年にわたり地域の人々に崇敬されてきました。
1509年
(永正6年)
永正6年(1509年)、僧・道空(どうくう)によって弘誓寺が開創されました。道空は第5代池田城主・池田充正の一族で、家老・大西与一右衛門の家系の出身です。本願寺第9世・実如上人の直弟子となった道空は、池田氏の菩提寺として弘誓寺を建立したと伝えられています。以後、弘誓寺は池田城下における浄土真宗の拠点寺院となりました。
1570年代
(元亀・天正期)
戦国時代、織田信長と本願寺勢力が争った石山本願寺の合戦(1570年代)に際して、弘誓寺は本願寺側に戦費を献じた記録があります。この貢献に対し、本願寺顕如上人(第11世法主)から寺宛に感謝状が贈られました。弘誓寺には現在も顕如からの直筆の礼状が残されており、当時、本願寺と池田氏との深い結びつきがあったことを物語っています。
1690年
(元禄3年)
江戸時代の元禄3年(1690年)、山門と鐘楼が一体となった楼門(鐘楼門)が建立されました。この楼門は前述のとおり二階建てで、建立当時の記録を刻んだ版木も現存しています。大伽藍を持たない中規模寺院において楼門を構える例は少なく、弘誓寺の楼門は地域の寺院建築史上、貴重な存在となっています。
1770年頃
(明和年間)
江戸中期の明和年間(およそ1770年頃)、本堂の内陣と外陣を仕切る襖に新たな障壁画が奉納されました。これが狩野派絵師・勝部如春斎(かつべ じょしゅんさい)による「松楓に孔雀」「松桜に孔雀」の襖絵八面です。華麗な孔雀が描かれたこの襖絵は、以降寺宝として大切に保存され、昭和53年(1978年)に池田市指定重要文化財に指定されました(池田市指定絵画第4号)。現在も年に一度公開され、多くの参拝者の目を楽しませています。
1853年
(嘉永6年)
江戸時代後期の嘉永6年(1853年)の冬、熊の恩返し伝説と呼ばれる出来事が起こりました。猪名川上流の山から迷い出た一頭の子熊が池田の町に迷い込み、醤油醸造業「雑喉屋太兵衛」の蔵に逃げ込んだのです。騒ぎになり鉄砲で射殺されそうになった熊を、心優しい太兵衛が捕らえて飼い始め、その後約7年間も世話をしました。ところが太兵衛が大病を患い命が危ぶまれたとき、飼われていた熊も病に倒れ息を引き取ります。不思議なことに、その後太兵衛の病状はみるみる快方に向かい全快しました。人々は「熊が恩返しのために身代わりとなって死んだのだ」と語り合い、熊への感謝を込めて弘誓寺境内の墓地に熊塚(熊の墓)を建立したと伝えられています。この熊塚は以降、地域に伝わる民話の史跡として大切にされ、現在もその碑が残っています。