| 所在地 | 大阪府大阪市北区同心1丁目3-1 |
|---|---|
| TEL | 06-6351-8232 |
| 山号 | 蓬莱山(ほうらいさん) |
| 宗派 | 曹洞宗 |
| 本尊 | 釈迦牟尼仏(釈迦如来) |
| 創建 | 天正12年(1584年)頃 |
| 開基 | 豊臣秀吉 |
| 開山(初代住職) | 亀洲宗鶴(きしゅう そうかく) |
龍海寺(りゅうかいじ)は、大阪市北区同心に位置する曹洞宗の古刹で、天満の旧寺町にひっそりと佇む寺院です。 創建は戦国時代末期の天正12年(1584年)頃と伝わり、豊臣秀吉が開基となって建立した由緒深い寺院として知られています。 寺伝によれば、秀吉が賤ヶ岳の戦いの帰途に越前・金剛院へ立ち寄った際、住職・亀洲宗鶴(きしゅう そうかく)から蕎麦と茶の心尽くしのもてなしを受けたことで両者が意気投合し、 同郷・尾張中村の出身であった縁から、天下人となった秀吉が宗鶴を大坂城下に招いて寺院建立を託したといわれます。 龍海寺は大坂城の鎮護および火除け祈願所として信仰され、秋葉三尺坊大権現を祀る火防の寺としても崇敬を集めました。 現在でも毎年8月18日前後に、秀吉の遺徳を偲ぶ盆施餓鬼法要が営まれています。
江戸時代には天満寺町の一角として地域に根づき、多くの人々の信仰を集めました。特に幕末期には、大坂の蘭学者・ 緒方洪庵の菩提寺として知られ、洪庵の遺髪と妻・八重の墓が境内に祀られています。明治維新後には 玉造稲荷神社から観音像を受け入れ、「大坂三十三ヶ所観音霊場」の第10番札所を務めた時期もありましたが、 第二次世界大戦の大阪空襲により堂宇は被災し、この観音像も失われました。 戦後に本堂などは再建されましたが、現在は一般公開されておらず、参拝・拝観も原則不可となっています。 境内は檀信徒の供養の場として維持され、永代供養墓や納骨堂を備える現代的な寺院として運営されています。
龍海寺山門脇には「緒方洪庵先生墓所」と刻まれた石碑が建ち、偉大な蘭学者・緒方洪庵ゆかりの寺であることを示しています。 洪庵は適塾を開き日本近代医学に大きな功績を残した人物。文久3年(1863年)に江戸で客死し、 遺髪が遺言により龍海寺に埋葬され、妻・八重の墓と並んで祀られています。 境内は非公開のため墓所自体は見られませんが、門前の顕彰碑(昭和50年建立)から歴史の面影を感じ取ることができます。 洪庵夫妻の墓は大阪市北区の名所旧跡にも選ばれており、歴史散策の重要スポットです。
境内には洪庵の高弟であり、日本近代陸軍の創設者として知られる大村益次郎(村田蔵六)の足塚もあります。 益次郎は明治2年(1869年)に京都で襲撃され片足を切断しましたが、死の直前に 「その足だけでも恩師・洪庵の側に埋めてほしい」と遺言したと伝えられます。 その遺志により、龍海寺の洪庵墓所の隣に片足が葬られ、小さな塚として残されています。 幕末を代表する医師であり改革者とその師の絆を象徴する、歴史ファン必見の史跡です。
龍海寺の境内には、洪庵の師であった蘭学者・中天游(なか てんゆう)夫妻の墓碑、 さらには江戸時代の南画家・中西石焦の墓も残されています。 建造物としては本堂・山門が戦後再建ながら伝統様式を踏襲し、瓦屋根には仏教で清浄を象徴する蓮の紋が施されています。 かつて本堂には豊臣秀吉直筆の扁額が掲げられていましたが、残念ながら大阪大空襲で焼失して現存しません。
龍海寺が位置する天満の旧東寺町は、豊臣期以来の寺院が建ち並ぶ歴史地区で、周囲を歩けば古い寺社の佇まいに多く出会えます。 寺の向かいには「池上雪枝感化院跡」と刻まれた石碑があり、明治16年(1883年)に社会事業家・池上雪枝が 日本初の少年感化院をこの地に開設したことを伝えています。明治26年まで続いた施設の唯一の遺構として、 龍海寺と合わせて訪れたい貴重な史跡です。
1584年頃
(天正12年)
越前・金剛院九世の僧・亀洲宗鶴が秀吉に招かれて開山。 大坂城鎮護・火防の祈願寺として創建される。
1837年
(天保8年)
「天満焼け」と呼ばれる大火により、伽藍が焼失したとされる。 以後、檀信徒の手で復興が進められた。
1848年
(嘉永元年)
本堂をはじめとする堂宇が復興し、天満寺町の一寺として再び整備される。
1863年
(文久3年)
江戸で病没した蘭学者・緒方洪庵の遺髪が納められ、妻・八重と並ぶ墓所が築かれる。 以後、龍海寺は洪庵の菩提寺として知られるようになる。
1869年
(明治2年)
洪庵の高弟・大村益次郎が京都で襲撃され死亡。 遺言により切断された片足が洪庵墓所の傍らに埋葬され、足塚として残る。
1870年
(明治3年)
洪庵の妻・八重が没し、夫の墓所の隣に合葬される。 夫妻の墓は後に北区名所旧跡として顕彰される。
1873年
(明治6年)
神仏分離の影響で十一面観音像が当寺に移され、「大坂三十三箇所観音霊場」第10番札所となる。 ※観音像は1945年の戦災で焼失。
1945年
(昭和20年)
3月・6月の空襲により堂宇が焼失。豊臣秀吉直筆の扁額もこの戦禍で失われた。 戦後に再建が進められる。
1955年頃
(昭和30年頃)
戦後復興が本格化し、現在の寺観の基礎が整えられる。 永代供養墓や納骨堂が設けられ、現代的な寺院として整備される。
1975年
(昭和50年)
大阪市により山門脇に顕彰碑が建立され、龍海寺が洪庵ゆかりの寺院として広く認知されるようになる。