| 寺院名 | 龍法山 遍満寺(へんまんじ) |
|---|---|
| 所在地 | 大阪府大阪市西淀川区姫島4丁目8-1 |
| 山号 | 龍法山 |
| 宗派 | 浄土真宗(真宗大谷派系・単立) |
| 本尊 | 阿弥陀如来 |
| 創建 | 天文6年(1537年) |
| 開基 | 浄願(越智喜兵衛通利) |
遍満寺は、天文6年(1537年)に浄土真宗の僧・浄願(越智喜兵衛通利)によって開かれた寺院です。浄願は本願寺第10世・証如上人の門弟で、創建に際して証如上人より御文一通と阿弥陀如来の絵像を下附され、これらを道場に奉安したと伝えられています。文禄3年(1594年)には太閤検地の功績により寺領の年貢を免除され、慶長7年(1602年)の東西本願寺分立に際しては、開基一族が教如上人(東本願寺〈真宗大谷派〉初代門首)に帰依し、以後は東本願寺系統の寺院として歩みを進めました。
山号「龍法山」は寛文4年(1664年)、三代目住職・浄玄の代に下賜され、続く四代目・浄哲の代の宝永4年(1709年)には六間四面の本堂が建立されています。宝暦元年(1751年)には第五世・浄界によって本堂の修復や庫裏の整備が行われ、遍満寺は姫島の地で約500年にわたり地域の人々の信仰を集める寺院として存続してきました。
第二次世界大戦末期の大阪大空襲では、本堂や庫裏など伽藍の大半が焼失しましたが、太鼓楼のみが奇跡的に焼失を免れました。当時の第12世住職・釈潤徳(河野包麿)が、燃え盛る堂宇の中から本尊の阿弥陀如来像を抱えて持ち出し、難を逃れたという逸話が今に伝えられています。戦後は仮本堂を経て復興が進められ、昭和34年(1959年)には旧太鼓楼を山門に移築し、聖徳太子像を安置しました。
その後も昭和42年(1967年)に鐘楼を新設、昭和43年(1968年)に納骨堂を建立、平成元年(1989年)には山門・塀・諸堂宇の瓦を一斉に葺き替えるなど、着実な整備が続けられました。遍満寺は平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災や、令和時代の新型コロナウイルス禍といった困難も乗り越え、現在も地域に寄り添う寺院として灯明をともし続けています。境内は毎日朝6時から夕方6時頃まで開門され、誰でも自由に参拝することができます。
境内入口に立つ山門は、瓦葺き入母屋造の重厚な楼門です。もとは江戸時代以来の太鼓楼でしたが、戦災を免れたため昭和34年(1959年)に現在地へ移築され、山門として再活用されました。上層部には往時の名残を感じさせ、現在は聖徳太子立像が奉安されています。門前左右の白漆喰に筋を施した「三本筋塀」も、往時の風格を今に伝えています。
参道正面に建つ本堂は、昭和戦後期の再建ながら伝統的な寺院様式を踏襲した堂宇です。本瓦葺の屋根に唐破風の向拝を備え、内部には本尊・阿弥陀如来像が安置されています。戦災後、檀信徒の協力により約15年をかけて再建され、昭和34年(1959年)に竣工しました。正面扉のガラス越しに本尊を拝することができ、堂内では法要や地域行事が営まれています。
山門を入って右手には手水舎が設けられ、参拝前に身を清める場となっています。特徴的なのは、手水舎の上部に吊り下げられた梵鐘で、小さな鐘楼を兼ねたような構成です。この鐘は昭和42年(1967年)に本堂屋上へ据えられた鐘楼の梵鐘で、境内に澄んだ音色を届けています。
本堂の左手には庫裡と寺務所が建ち、住職一家の居住空間であるとともに、寺務を執る拠点となっています。境内の動線と調和した配置で、日常の法務を支えています。
境内奥には昭和43年(1968年)建立の納骨堂があり、檀家の先祖代々の遺骨を安置する施設となっています。境内はこぢんまりとしながらも整備が行き届き、季節の草花が植えられて清潔感があります。姫島の住宅街に位置し、近隣の姫嶋神社と合わせて参拝する人の姿も見られます。
1537年
(天文6年)
開基・浄願(越智喜兵衛通利)が姫島の地に浄土真宗の道場を創建しました。本願寺第10世・証如上人の門弟として布教を開始したと寺伝に伝えられています。
1594年
(文禄3年)
豊臣秀吉による太閤検地の際、新田開発の功績が認められ、遍満寺の寺領が年貢免除となりました。
1602年
(慶長7年)
東西本願寺の分立に伴い、開基一族が教如上人(東本願寺)に帰依し、以後、東本願寺系統の寺院として歩み始めました。
1664年
(寛文4年)
第三世・浄玄の代に、江戸幕府より寺号「龍法山遍満寺」と本尊阿弥陀如来像の下附を受けました。
1709年
(宝永4年)
第四世・浄哲の代に、六間四面の本堂が新築され、江戸中期の伽藍整備が進められました。
1751年
(宝暦元年)
第五世・浄界の代に庫裡の造営および本堂の修復が行われ、以後明治維新まで姫島地区の真宗寺院として信仰を集めました。
1945年
(昭和20年)
3月14日未明の大阪大空襲により本堂・庫裡などが焼失しました。第十二世住職・河野包麿(釈潤徳)が炎上する堂内から本尊阿弥陀如来立像を持ち出し難を逃れました。
1946年
(昭和21年)
焼失翌年に簡易な仮本堂を建立し、戦後の混乱期においても寺務と法要を継続しました。
1955年
(昭和30年)
第十二世住職の発願により「本堂再建五ヵ年計画」を立案し、募財と建設準備を本格化させました。
1959年
(昭和34年)
10月、新本堂が落成。併せて戦災で残った太鼓楼を移築して山門を建立し、楼上に聖徳太子像を奉安しました。再建落慶法要が厳修されました。
1967年
(昭和42年)
本堂屋上に鐘楼を新設し、梵鐘による朝夕の定時撞鐘が再開されました。
1968年
(昭和43年)
納骨堂を新築し、門信徒の納骨受け入れを開始しました。
1989年
(平成元年)
山門および境内諸堂の瓦屋根を一斉に葺き替え、戦後復興事業の総仕上げとして境内整備が完了しました。
1995年
(平成7年)
1月17日の阪神・淡路大震災により大阪市内も被災しましたが、遍満寺では大きな被害はなく、地域に寄り添い復興支援に努めました。
2020年
(令和2年)
新型コロナウイルス感染症の流行下においても寺門を閉ざさず、行事を縮小しながら地域の仏事と信仰の灯を守り続けました。