所在地 | 大阪府吹田市佐井寺1-19-7 |
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TEL | 06-6388-8337 |
宗派 | 浄土真宗本願寺派(西本願寺) |
本尊 | 阿弥陀如来 |
創建 | 寛永6年(1629年) |
文化財 | 木造地蔵菩薩立像(平安時代、大阪府指定有形文化財) |
西寳寺の起源は奈良時代にさかのぼると伝えられます。寺伝によれば、天平7年(735年)、高僧・行基が当地を訪れた際に西方の丘で瑞光を目にし、その地を掘ると栴檀製の十一面観音像が現れました。行基はこの観音像を本尊として七堂伽藍を建立し、「山田寺」と称したと伝えられます。以後、この地は観音信仰の霊場となり、「佐井寺(さいでら)」の地名もこの寺院に由来するとも言われています。寺の裏手から湧き出た清水は「佐井の清水」と呼ばれ、眼病平癒に霊験あらたかなお香水(おこうずい)として広く信仰を集めました。平安時代には薬師堂も建立され、薬師如来・観音菩薩・霊水への信仰が結びついた独自の信仰圏が形成されていました。
中世には戦乱の影響で寺運が衰退し、天文2年(1533年)の一向一揆の戦火によって堂宇が焼失しました。しかし同年11月には早くも仮堂が建立され、焼け残った本尊が遷座されたことが伝わっています。その後、戦国から安土桃山時代にかけ、地域の浄土真宗(一向宗)門徒たちはこの寺を村の惣道場として信仰を守り続けました。江戸時代初期の寛永6年(1629年)には正式に「西寳寺」として寺院に昇格し、本尊阿弥陀如来を迎えて寺基を整えました。
さらに正保4年(1647年)には僧・楽順が荒廃していた寺を中興し、慶安2年(1649年)には京都所司代・板倉重宗の寄進により梵鐘が鋳造・奉納されました。この梵鐘は現存し、寺の鐘楼とともに江戸前期の様式を今に伝える貴重な遺産です。鐘楼自体も17世紀中頃の建立とされ、大阪府下に現存する近世鐘楼の中で2番目に古いものとされています。幕末から明治維新期には神仏分離の影響で境内の鎮守社や地蔵堂が分離されましたが、明治35年(1902年)頃には南北朝時代の「下馬碑(げばひ)」が寺に戻るなど、寺宝や遺構の保存にも努められてきました。現在も地域の門徒により守られ、歴史と文化を今に伝える静かな祈りの場となっています。
現在の西寳寺の境内に入ると、まず目に入るのが江戸時代創建の鐘楼と梵鐘です。淡い朱色を帯びた鐘楼は小規模ながら格式ある造りで、長い年月を経ても堅固に立ち続けています。吊るされた梵鐘は寛永期以来350年以上も伝わるもので、その深みのある音色はかつてこの地に暮らした人々にも響いていたことでしょう。歴史の証人ともいえる鐘楼と梵鐘は、西寳寺を訪れる際にぜひ注目したい見どころです。
住宅街の中にひっそりと建つ入口ながら、どっしりとした門構えが目を引きます。門前には「浄土真宗本願寺派 西寳寺」と刻まれた石標が立ち、寺の由緒を感じさせます。
正面に瓦屋根の三角破風をいただく本堂は近代以降に再建された比較的新しい建物です。内部にはご本尊の阿弥陀如来がお祀りされ、法要や参拝の場となっています。外には浄土真宗の宗祖・親鸞聖人像も安置され、門徒を静かに見守っています。
石段を上がった先にある入母屋造風の鐘楼は、江戸前期・17世紀の建立と伝わる貴重な建造物です。中に吊るされた梵鐘は慶安2年(1649年)に寄進されたもので、大阪府内でも有数の古鐘として知られます。大晦日には除夜の鐘が撞かれ、その深い音色が近隣に響き渡ります。
境内には小さな薬師堂があり、元は近隣の伊射奈岐神社付近にあったものが移されたと伝わります。毎年夏の土用の丑の日には、この薬師堂で胡瓜加持(きゅうりかじ)と呼ばれる伝統行事が行われます。キュウリに病魔を封じ込めて無病息災を祈る民間信仰行事で、地元の人々が参詣し健康祈願を行う姿が見られます。
山門脇の坂道近くには「向かい坂地蔵」と呼ばれる十三体の石仏が一列に並んでいます。享和3年(1803)および文化7年(1810)の年号が刻まれた古い地蔵尊で、旅人や村人の道中安全を見守った道標の役割も果たしました。現在も花が手向けられ、地域の人々によって大切に守られています。
735年
(天平7年)
行基が当地で十一面観音像を掘り当て、山田寺(佐井寺)を開創。
1533年
(天文2年)
一向一揆の戦乱により堂宇が焼失。同年中に仮堂を建てて本尊を安置。
安土桃山時代
(16世紀後半)
浄土真宗(一向宗)の惣道場として、佐井寺村の門徒により維持される。
1629年
(寛永6年)
江戸幕府公認の浄土真宗寺院「西寳寺」として再興。正式に本尊阿弥陀如来を迎え、寺号を公称。
1647年
(正保4年)
僧・楽順が荒廃していた寺を中興し、復興を果たす。
1649年
(慶安2年)
京都所司代・板倉重宗が梵鐘を寄進。鐘楼もこの頃に建立され、大阪府下で現存2番目に古い鐘楼となる。
1803年
(享和3年)
向かい坂地蔵の石仏群の一部が造立される。
1810年
(文化7年)
残りの石仏が造立され、一列に13体の地蔵尊が揃う。
1868年
(明治元年)
神仏分離令により境内の愛宕社と地蔵堂が分離し、愛宕神社として独立。
1902年
(明治35年)
南北朝時代(1368年銘)の下馬碑が寺に戻され、保存される。
現代
大阪府指定の平安時代作・木造地蔵菩薩立像(通称「出現地蔵」)や平安後期の薬師如来立像などの文化財を所蔵。胡瓜加持などの年中行事を通じて、地域の信仰と文化を今に伝えている。