| 所在地 | 大阪府大阪市北区末広町1-35 |
|---|---|
| 山号 | 玉泉山(ぎょくせんざん) |
| 宗派 | 日蓮本宗(興門派・要法寺系) |
| 本尊 | 十界曼荼羅(妙法蓮華経の御本尊) |
蓮興寺(れんこうじ)は、大阪天満宮の北側に広がる寺院集住地「天満寺町」の一角に位置する寺院で、江戸時代初期、豊臣秀吉の大坂城下町整備に伴って形成された寺町の中でも古い歴史をもつ寺院と考えられています。正確な創建年は不明ですが、近世以前から存在し、もとは日蓮宗に属していました。1950年(昭和25年)に本山・京都要法寺が日蓮宗から独立した際、蓮興寺もこれに伴って日蓮本宗(興門派)へ改まりました。第二次世界大戦末期の大阪大空襲では堂宇を焼失しましたが、戦後に鉄筋コンクリート造の本堂が再建され、現在は近代的な外観の寺院として整備されています。
蓮興寺が特に知られるのは、江戸後期の陽明学者・大坂町奉行所与力である大塩平八郎ゆかりの寺院である点です。平八郎は天保8年(1837年)の「大塩平八郎の乱」で知られる人物で、その生家・大塩家の菩提寺がこの蓮興寺にあたります。幼くして両親を亡くした平八郎は祖父母に育てられ、境内にはその祖父母(祖父・政之丞の先妻および後妻)や実母・清心院の墓所が祀られています。平八郎本人と息子・格之助の墓所は隣接する成正寺にありますが、蓮興寺もまた大塩家ゆかりの寺として重要な歴史を担っています。山門脇に設置された「大塩家墓所」の石碑は、その歴史的縁を今に伝えています。
蓮興寺の境内には春になると八重桜が咲き誇り、塀越しに外へと大きく枝を伸ばします。 道路側にまで花がこぼれ落ちるように咲き、桜のトンネルを思わせる光景は天満随一とも称される美しさです。 一般拝観はできないものの、門前から眺めるだけでも春の風情が存分に感じられ、散策中の人々を楽しませています。
蓮興寺の本堂は戦後に再建された鉄筋コンクリート造の近代的な建物です。 境内は常に手入れが行き届き、閉ざされた山門越しでも整った伽藍の様子をうかがうことができます。 伝統的な寺院建築が立ち並ぶ天満寺町の中で、現代的な堂宇を構える点が蓮興寺の特徴のひとつです。
山門前には「大塩家墓所」と刻まれた石碑が立ち、大塩平八郎ゆかりの寺院であることを示しています。 境内には平八郎の祖父母や実母にあたる人物の墓所が祀られており、外からでもその歴史の一端を感じ取ることができます。 静かな境内と石碑は、天満の地に根づく大塩家の足跡を今に伝えています。
一般拝観不可の寺院ではありますが、門前から眺める境内の様子や桜の季節の華やかな風景は、 天満周辺の散策の途中で立ち寄るには格好のスポットです。 都市の喧騒の中にありながら、蓮興寺は静穏と歴史を感じさせる “寺町の風景” を今に伝えています。
江戸時代初期
(17世紀初頭)
大阪天満宮北側に寺院集住地「天満寺町」が形成され、蓮興寺もその一角に建立されたと伝わる。 創建年代は不明だが、近世初期から続く古寺とみられる。
1837年
(天保8年)
陽明学者・大塩平八郎が蜂起。後年、蓮興寺は大塩家(平八郎の実家)の菩提寺となり、 祖母・母らの墓所を安置する寺として知られるようになる。
1945年
(昭和20年)
第二次世界大戦末期の空襲により堂宇が焼失。境内墓所も被災し、戦後復興が必要な状況となる。
1950年
(昭和25年)
本山・要法寺が日蓮宗から独立したことに伴い、蓮興寺も日蓮本宗(興門派)へと改宗する。
1950年代
戦後復興により本堂が再建され、近代的な鉄筋コンクリート造の堂宇が整えられる。 現在の蓮興寺の外観の基盤となる重要な時期。
現在
一般公開はされていないが、山門脇の「大塩家墓所」石碑や塀越しの八重桜など、 歴史的・季節的見どころが残り、地域の史跡として静かに親しまれている。