所在地 | 大阪府豊中市若竹町1-3-15 |
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電話 | 06-6862-7079 |
宗派 | 浄土真宗本願寺派(西本願寺) |
備考 | 住職:源 淳道 |
興法寺(こうほうじ)は、大阪府豊中市若竹町にある浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺院で、山号を利生山(りしょうざん)と称する。 その起源は鎌倉時代初期、承元元年(1207年)頃に遡る。摂津国今福村(現・兵庫県尼崎市今福)を治めていた武士・今福佐衛門源道悟が法然上人の教化を受け、浄土の教えに帰依して一宇を建立したのが始まりとされる。 翌年、親鸞聖人が関東から帰洛する際に今福に立ち寄り、源道悟はその法話に感銘を受けて弟子となり、謝恩のため上洛して「興法寺」の寺号を賜ったと伝えられている。
以後、興法寺は浄土真宗の道場として今福の地で代々継承され、戦国時代までに十一世・専宗を数えた。 しかし天正年間、織田信長と本願寺顕如の石山合戦(1570–1580年)が起こると、第十一世専宗は顕如方に加わり、天正2年(1574年)頃に織田方の兵火によって堂宇を焼失した。 専宗は難を逃れて豊島郡石蓮寺村(現・豊中市若竹町)に移り、再興を志して教線を保った。
江戸時代初頭の慶長10年(1605年)、第十二世裕宗が檀信徒の支援を受けて現在地に本堂を再建。 これにより興法寺は若竹の地で中興を果たし、豊中地域の浄土真宗寺院として発展した。 以後、西本願寺系の寺院として法灯を伝え、今日に至るまで地域門徒の信仰の中心として受け継がれている。
興法寺自体に国や府の指定文化財はないが、周辺の若竹町一帯は古代寺院「石蓮寺(せきれんじ)」の旧跡にあたる。 石蓮寺は奈良時代に行基菩薩が創建したと伝わる大伽藍で、「天竺山石蓮寺」と号し、千坊を数える壮大な寺院であった。 平安末期の治承・寿永の乱で焼失し廃絶したが、昭和期の調査により住吉神社西側一帯が白鳳時代の石蓮寺跡と確認され、豊中市指定史跡となっている。 出土した軒瓦や心礎は奈良時代の遺構とされ、興法寺の寺名「興法(仏法を興す)」にも古代の霊地に法灯を再興した意義が込められている。
江戸時代初期に再建された木造の本堂。切妻造瓦葺きの堂宇で、内部には阿弥陀如来像を安置する。 朝夕の勤行や法要の中心となり、長い年月を経ても良好に保存されている。 周囲には石灯籠や植栽が配置され、閑静で風格のある佇まいを見せる。
本堂正面に構える表門は、切妻屋根の薬医門風構造で、梁上には寺紋「下がり藤」と山号「利生山」の扁額が掲げられている。 普段は開放され、参拝者は自由に境内へ入ることができる。門前には寺号標石が建ち、右手には庫裏や寺務所の入口がある。
境内の一角に建つ入母屋造の小亭で、寄進による梵鐘を吊るしている。 大晦日には除夜の鐘が撞かれ、その音が静かな住宅地に響く。 木造の素朴な構造ながら、本堂との調和が美しく、境内景観の象徴となっている。
本堂脇には、古代寺院・石蓮寺跡であることを示す由緒板が豊中市教育委員会により設置されている。 さらに、周辺の路傍には「右:大坂焔硝蔵場跡・興法寺/左:石蓮寺跡」と刻まれた石柱型の道標が立ち、 昭和57年に地元有志により建立された。歴史散策の道標として、訪れる人々に往古の物語を伝えている。
庫裏前には手入れの行き届いた小庭があり、四季折々の花が彩りを添える。 春には桜が咲き、淡紅の花弁が堂宇を飾る。北西には服部緑地の山ヶ池が広がり、水辺越しに見る本堂の瓦屋根と樹木が美しい。 静寂な境内と豊かな自然が調和する風景は、市街地にありながら心安らぐ癒しの空間となっている。
1207年(承元元年)
摂津国今福村の武将・今福源道悟が法然上人の教えに帰依し、念仏道場を開く。これが興法寺の創始とされる。
1235年前後(天福~文暦年間)
親鸞上人が関東布教から帰京する途中、今福の地で説法を行い、源道悟が深く感銘を受けて寺院建立を発願。 翌年上洛して親鸞より「興法寺」の寺号を授かり、正式に開創したと伝えられる。
1574年(天正2年)
第十一世住職・専宗が本願寺顕如に与して石山合戦に参戦。織田信長の軍勢により今福の興法寺は焼き討ちを受け、堂宇が全焼した。
1580年代
戦乱の終息後、専宗ら興法寺の僧俗が豊島郡石蓮寺村(現・豊中市若竹町)へ移住。仮堂宇を建てて布教を継続し、再興の基礎を築く。
1605年(慶長10年)
第十二世・裕宗が檀信徒の協力を得て現在地に本堂を再建。 興法寺は若竹町の地で中興を果たし、地域の浄土真宗寺院として再出発した。
以降
江戸時代を通じて地域の念仏寺として存続。明治以降も堂宇の修復・改築を重ね、現在に至るまで西本願寺系寺院として法灯を継承している。