所在地 | 大阪府豊中市上新田2-1-3 |
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山号 | 暁雲山(ぎょううんざん) |
宗派 | 浄土真宗本願寺派(西本願寺) |
本尊 | 阿弥陀如来(木造立像) |
創建 | 寛永6年(1629年) |
開基 | 柳恵(りゅうえ)上人(初代住職) |
真覚寺(しんかくじ)は、大阪府豊中市上新田に位置する浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺院で、江戸時代初期の寛永年間(1624~1644年)に創建された。 山号は暁雲山(ぎょううんざん)。開基は本願寺第十二世・淮如上人に帰依した柳恵上人と伝わる。 創建当初は門徒(浄土真宗の信徒)たちの惣道場として始まり、のちに西本願寺の直末寺として本願寺教団の一寺となった。 約400年の歴史を持つ古刹であり、明治維新後には地域教育の拠点として一時期小学校としても使用されるなど、地域と共に歩んできた寺である。
現在でも報恩講、除夜の鐘などの年中行事を継続し、門信徒に限らず広く地域住民に開かれた活動を行っている。 境内は美しく整備され、落ち着いた佇まいの中に阿弥陀如来の慈悲を象徴する静けさが漂う。 「阿弥陀如来の本願=あらゆる人々を隔てなく救う」という宗祖・親鸞の教えに基づき、誰でも自由に参拝できる開かれた寺院として親しまれている。 豊中市内でも特に古い歴史を持つ寺院の一つとして、仏教文化と地域史を学ぶ上でも価値の高いスポットとなっている。
真覚寺の本堂は木造瓦葺きの伝統的な建築で、浄土真宗本願寺派の寺院らしい質実な佇まいを見せる。 堂内正面には本尊・阿弥陀如来が安置され、穏やかな微笑みで参拝者を迎える。 明治初期にはこの本堂が新田小学校(現・市立新田小学校)の仮校舎として使用され、地域の子どもたちが学んだと伝えられる。 歴史的にも教育・信仰の両面で地域と深く関わってきた建物である。
本堂脇の木立に囲まれた鐘楼堂には、歴史を物語る梵鐘が吊るされている。 現在の鐘楼は明治10年(1877年)に建立され、大正11年(1922年)に再建。 梵鐘は太平洋戦争中に金属供出で一時失われたが、幸運にも破壊を免れ、昭和27年(1952年)に再び鋳造された。 毎年大晦日には地域住民が108回鐘を撞く「除夜の鐘」が行われ、年の瀬の風物詩として親しまれている。
境内には先人を弔う供養塔や歴代住職の墓碑が点在し、寺の長い歴史を物語っている。 これらの石碑や塔は目立った文化財指定こそないが、真覚寺が歩んできた約400年の時の重みを感じさせる。 境内を散策すると、仏教信仰と地域史が息づく静かな情景に出会うことができる。
境内全体はこぢんまりとしながらも整然とした配置で、山門から本堂までの参道が美しく整えられている。 植栽や木立が四季折々に彩りを添え、春の桜や秋の紅葉が訪れる人々の目を楽しませる。 伽藍そのものが歴史の証人であり、地域の信仰と文化を今に伝える重要な遺産となっている。
寛永6年(1629)
浄土真宗の門徒による惣道場として創建。当初は在家信徒が集う信仰の場であり、地域の念仏道場として始まった。
万治2年(1659)
本願寺第12世・淮如上人に帰依した柳恵上人が初代住職となり、寺院としての組織が整う。 この頃より正式に「真覚寺」の寺号を称するようになる。
正徳元年(1711)
真覚寺が西本願寺の直末寺(直属の末寺)として公認される。 本山直属の寺として、門信徒の教化活動を担うようになる。
明治6~15年(1873~1882)
学制発布に伴い、本堂を仮校舎として地域の子どもたちに教育を提供。 「新田小学校」の前身として、寺子屋の伝統を継ぎながら地域教育に寄与した。
明治10年(1877)
境内に鐘楼堂を建立。寺の象徴として、梵鐘の音が地域に時を告げるようになる。
大正11年(1922)
老朽化した鐘楼堂を再建。現在見られる鐘楼はこの時の再建によるもので、境内の風景を代表する建築物となる。
昭和戦中期(1940年代)
太平洋戦争下、金属類回収令により梵鐘を供出。寺の象徴でもあった鐘を失う危機を迎える。
昭和27年(1952)
戦後、失われた梵鐘を新たに鋳造して再奉納。再び鐘の音が境内と地域に響き渡るようになる。
以後~現代
戦後以降も歴代住職が法灯を継ぎ、第14世・田邊家へと受け継がれる。 年間行事や報恩講、除夜の鐘などを通じ、地域住民に開かれた寺院として信仰と伝統を今に伝えている。