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雪峰山 瑞輪寺せっぽうざん ずいりんじ

平安期創建・黄檗宗再興の古刹として桜塚に息づく禅寺

所在地 大阪府豊中市中桜塚2丁目2-24
宗派 黄檗宗(本山:宇治・萬福寺)
山号 雪峰山(せっぽうざん)
本尊 薬師如来(木造漆箔薬師如来坐像)
創建 平安時代(桜塚山〈桜墳山〉善光寺として創建)
再興 元禄13年(1700年)、黄檗宗僧・千呆禅師により再興
開山 千呆(せんがい)禅師(初代住職)
別称 桜塚山善光寺(創建当初の寺号)

桜塚善光寺を前身とする古刹 ― 瑞輪寺の創建と地域との関わり

瑞輪寺の起源は平安時代に遡り、当初は真言宗の寺院「桜塚山(桜墳山)善光寺」として創建されました。 善光寺は原田神社の神宮寺(神社に付属する寺)として建立され、現在の大門公園から曽根方面にまで広がる広大な境内を有していたと伝えられます。 当時は神仏習合の時代であり、原田神社と密接に結びついて桜塚一帯の信仰と文化の中心として機能していました。 寺号に含まれる「桜塚」の名は、近隣に広がる桜塚古墳群(大石塚古墳など)に由来し、 この地の古代史と宗教文化が重なり合う象徴的な存在でした。

室町時代には、一休宗純(いっきゅうそうじゅん、通称「一休さん」)が応永24年(1417年)頃から 約20年にわたってこの地に逗留したという伝承が残ります。 一休の子と伝わる岐翁紹偵(きおうしょうてい)の墓(僧塚)も境内にあり、 一帯には一休禅師ゆかりの気配が今も感じられます。 こうした伝説が示すように、桜塚山善光寺は中世の文化人や高僧にも知られた寺院だったと考えられます。

しかし戦国時代に入ると、善光寺は戦火に巻き込まれて荒廃しました。 天正6年(1578年)の織田信長による原田攻め、または天正7年(1579年)の荒木村重の乱、 さらに慶長6年(1601年)の兵火など、いずれかの戦乱によって焼失したとされています。 その後、長く廃寺状態が続き、かつての桜塚の古寺は一時的に姿を消しました。

黄檗宗による再興と近代への歩み

江戸時代中期、荒廃していた桜塚の古寺は黄檗宗の僧によって再び息を吹き返します。 元禄13年(1700年)、黄檗宗開祖・隠元隆琦の法孫である即非(そくひ)禅師の勧請により、 弟子の千呆(せんがい)禅師が初代住職として再建し、寺号を「雪峰山 瑞輪寺」と改めました。 瑞輪寺は宇治の萬福寺を本山とする黄檗宗の末寺として再出発し、 かつての善光寺の本尊を引き継ぎながら、禅の精神を基盤とした信仰の場となりました。

第二世・大雄禅師の代には本尊仏像の修復や堂宇の整備が進められ、寺領も拡充されたと伝わります。 明治時代には大規模な改修が行われ、さらに昭和40年(1965年)には本堂をはじめとする近代的な伽藍が再建されました。 現在の本堂は鉄筋コンクリート造で、堅牢ながらも静寂な雰囲気を保っています。 昭和62年(1987年)には本尊・薬師如来坐像および四天王像(二躯)が豊中市の有形文化財に指定され、 寺の歴史的・文化的価値が改めて評価されました。 瑞輪寺は今日もなお、豊中市を代表する歴史寺院として、地域の信仰と文化の中心に位置づけられています。

  • 竜宮門(山門)

    桜塚商店街を抜けた先に建つ瑞輪寺の山門は、真っ白な竜宮城風の門として知られています。 黄檗宗寺院らしい中国風意匠が施され、白く塗装された外観が街並みに映える異国情緒を放っています。 門前には一対の石仏塔が据えられ、それぞれ修験道の開祖・役行者(役小角)の像を頂く珍しい造形です。 これらは桜塚の山中で修行が行われていた名残ともいわれ、地域信仰の歴史を伝えています。

  • 本堂(薬師堂)

    山門をくぐると正面に近代的な重層入母屋造の本堂が構えます。 現在の建物は昭和40年(1965年)の再建で、内部には平安時代後期の木造漆箔薬師如来坐像(高さ約89cm)が安置されています。 この薬師如来は桜塚山善光寺時代から伝わる尊像で、寄木造に漆箔を施した古色豊かな仏像。 11世紀末~12世紀初頭の作とされ、市指定有形文化財にも登録されています。 また堂内には旧善光寺から伝来した四天王像(二躯:持国天・増長天)が祀られ、平安後期の遺仏として貴重な存在です。

  • 地蔵堂と千佛地蔵尊

    本堂左手には小さな地蔵堂があり、極彩色の地蔵菩薩立像が安置されています。 この「千佛地蔵尊」は、衣の裾や光背に無数の小仏をあしらった珍しい造形で、 子どもの守護と延命長寿の仏として古くから信仰を集めています。 お堂の周囲には石仏や地蔵塔が並び、花々が供えられた穏やかな祈りの空間が広がっています。

  • 鐘楼堂

    境内右手には瓦屋根を持つ鐘楼堂があり、法要や大晦日の除夜の鐘で梵鐘が撞かれます。 鐘の音は近隣の商店街にも響き、都市の中で季節の移ろいを感じさせます。 鐘楼は再建後に建てられた比較的新しい建物ですが、黄檗宗特有の中国風意匠を残しています。

  • 水田西吟の墓

    瑞輪寺の境内墓地には、江戸前期の俳人・水田西吟(みずた さいぎん)の墓があります。 西吟は井原西鶴の門下四天王の一人で、談林派俳諧を広めた人物。 宝永6年(1709年)に没し、当地の「落月庵」で晩年を過ごしたと伝えられます。 墓碑には「誹宗西吟之塔」と刻まれ、静かに眠る俳人に手を合わせる人も少なくありません。

  • 僧塚(岐翁紹偵の墓)

    墓地北東隅には「僧塚」と呼ばれる古い石塔があり、室町時代の禅僧・岐翁紹偵(きおう しょうてい)の墓と伝えられています。 一休宗純の実子が出家した姿ともいわれ、明応7年(1498年)に没した後、明治期に現在地へ移されたと伝承されます。 塔身には「僧塚塔」と刻まれ、一休ゆかりの僧を弔う貴重な史跡として残されています。 歴史ファンには見逃せない、一休伝説を身近に感じられるスポットです。

瑞輪寺のあゆみ

  • 元禄13年(1700年)

    黄檗宗による再興と寺号の改定

    黄檗宗開祖・隠元禅師の法孫である即非(そくひ)禅師の勧請により、 荒廃していた桜塚の古寺を再興。弟子の千呆(せんがい)禅師が初代住職となり、 寺号を「雪峰山 瑞輪寺」と改める。 宇治・萬福寺を本山とする黄檗宗の末寺として再出発を遂げた。

  • 18世紀中期(第二世・大雄禅師の代)

    堂宇整備と寺領拡充

    寺伝『瑞輪寺由緒』によれば、本尊仏像の修復や堂宇の整備が行われ、 寺領の拡大によって寺勢を高めた。桜塚一帯の信仰の中心として寺運が安定する。

  • 明治時代(19世紀後半)

    大規模修理と近代化への歩み

    明治期には本堂や庫裡などの修理が行われ、近代化への基盤を築く。 神仏分離政策の影響を受けつつも、檀信徒の支援によって寺院としての機能を保持した。

  • 昭和40年(1965年)

    近代的伽藍の再建

    本堂をはじめとする主要伽藍を鉄筋コンクリート造で再建。 堅牢な建築へと姿を変えながらも、地域の信仰を支える寺院として再生した。

  • 昭和62年(1987年)

    文化財指定と現代の瑞輪寺

    本尊・薬師如来坐像および四天王像(二躯)が豊中市指定有形文化財に登録。 歴史的・文化的価値が改めて認められ、瑞輪寺は豊中市内でも 代表的な歴史文化遺産としてその存在を確立している。

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