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浄行寺じょうぎょうじ

楠木正秀(浄信上人)が開いた南北朝ゆかりの古刹、正光山 浄行寺

所在地 大阪府豊中市走井1-2-3
電話 06-6853-0477
宗派 浄土真宗本願寺派(西本願寺)
山号 正光山(しょうこうざん)
本尊 阿弥陀如来(浄土真宗の宗派本尊)
創建 応永6年(1399年)頃
開基 浄信上人(楠木正秀)
開門時間 通常自由参拝(参拝は日中のみ推奨)

戦乱と空襲を乗り越え、楠木一族の系譜と地域の平和を今に伝える豊中・走井の名刹

浄行寺(じょうぎょうじ)は、大阪府豊中市走井に位置する浄土真宗本願寺派の古刹で、室町時代初期に創建された。 開基は浄信上人(俗名:楠木正秀)と伝えられ、南北朝の名将・楠木正成の孫にあたる。 正秀は応永6年(1399年)の応永の乱に敗れて走井村に落ち延び、土着豪族・杉原氏の庇護を受けて出家し「浄信」と号し、一宇を建立した。 この際、「楠木」と「杉原」の姓を合わせて「楠原」と改め、現在に至るまで浄行寺の住職家は楠原姓を名乗っている。 寺は代々の住職により護持され、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では堂宇を焼失したが、第四世・浄祐(正源)によって走井村に再興された。 江戸中期にも火災に見舞われ古記録を失ったが、再建を重ねながら信仰の場として地域に根付いてきた。

境内は千里川沿いの閑静な住宅街にあり、山門をくぐると石畳の参道と小高い丘上の本堂が見える。 阿弥陀如来を本尊とする内陣は法要時のみ拝観可能で、右手には青銅製の梵鐘が吊るされた鐘楼が建つ。 春には桜、秋にはイチョウが境内を彩り、歴史ある古寺の風情を漂わせている。 地域の檀信徒の信仰の場であると同時に、豊中の郷土史を語る史跡としても知られ、歴史散策コースにも含まれている。

第二次世界大戦中には、伊丹飛行場(現・大阪国際空港)に近い立地から走井地区が空襲に遭い、昭和20年(1945年)6月7日の豊中空襲で40名以上が犠牲となった。 浄行寺は避難所・救護所となり、本堂に多くの遺体が安置されたという。 この空襲で第七世住職・慧上師も命を落とし、戦後は地域復興の精神的支柱として人々を支えた。 平成6年(1994年)、戦後50回忌にあたる年に境内へ御影石製の「追悼之碑」が建立され、碑文には犠牲者の慰霊と恒久平和への祈りが刻まれている。 現在も命日の6月には法要が営まれ、地域住民とともに平和を祈念している。

さらに浄行寺には、江戸中期の庶民文化に関わる伝承も残る。 人形浄瑠璃『新版歌祭文』の題材として知られる「お染久松心中」のモデル、油屋久松は浄行寺住職の次男であったという説がある。 寺の過去帳には「宝永四年(1707年)正月、走井村浄行寺次男坊久松…主家にて心中死す」との記録があり、郷土史家・後藤捷一氏の研究で明らかにされた。 この史実により、浄行寺は「お染久松」悲恋物語の舞台の一端として文化史的にも注目されている。 古記録の多くが焼失した中、過去帳が残存したことは極めて貴重であり、同寺が地域史と文学史の両面から重要な寺院であることを示している。

  • 楠木正秀公の墓碑

    境内墓地の一角に、開基・楠木正秀の墓と伝わる五輪塔状の石碑が静かに祀られている。 一見すると自然石に見えるが、表面には楠木家の家紋・菊水紋が刻まれ、楠木一族ゆかりの墓であることが分かる。 楠木正秀は南北朝期の後南朝方武将で、応永の乱後にこの地で出家・開山したと伝えられる。 江戸期には幕府への配慮から「無銘の墓」とされ、顕彰碑には「世をはばかり無銘にして遺す」と刻まれている。 公式な文化財指定はないが、豊中市内では太平記ゆかりの史跡として貴重な存在である。

  • 浄行寺過去帳(お染久松伝承)

    浄行寺に伝わる江戸時代の過去帳は、大坂で語り継がれる悲恋物語『お染久松心中』の実説を裏付ける資料として知られる。 宝永4年(1707年)に記された記録には「走井村浄行寺次男坊久松…主家にて心中死す」とあり、物語のモデルとされる久松の実在を示す。 火災で多くの古記録を失った中、この過去帳だけが現存し、研究者の分析によって内容が公表された。 非公開ながら、豊中市文化財ガイドブックなどでも紹介される地域文化の貴重な史料である。

  • 本堂

    1930年代後半に再建された入母屋造瓦葺きの本堂。濃茶色の柱梁が映える重厚な造りで、内部の内陣には金色の仏具が荘厳に並ぶ。 昭和20年の空襲時には被害を受けながらも倒壊を免れ、地域住民の遺体安置所としても使われた歴史を持つ。 現在も朝夕の勤行や法要の場として使用され、静かな祈りの空間を保っている。

  • 山門

    国道99号(旧伊丹街道)に面する薬医門形式の山門。白壁塀と調和した簡素な門ながら、堂々とした風格を備える。 「正光山浄行寺」の額が掲げられ、門前右手には石標も立つ。 門をくぐると短い石段とスロープの参道が続き、奥の高台に本堂が見える。 外の喧騒を離れた境内は、穏やかな静寂に包まれている。

  • 鐘楼

    本堂右手に建つ小ぶりながら風格ある鐘楼堂。宝形造風の屋根を持ち、濃瓦葺きで統一されている。 吊るされた青銅製の梵鐘は深みのある音色を響かせ、毎年大晦日には除夜の鐘として地域住民に開放される。 鐘身には鋳造年の銘が刻まれているが、風化により判読困難で、天明年間(18世紀)頃の作と伝えられる。

  • 楠木正秀の墓所・顕彰碑

    境内裏手の墓地にある楠木正秀の墓所は、木立に囲まれた静謐な一角に位置する。 五輪塔状の無銘石碑が墓と伝わり、幕府の時代に「楠木一族の墓」と名乗ることを憚り無記名のまま残された。 すぐそばの顕彰碑には「世をはばかり無銘にして遺す」との文字が刻まれ、墓の由来を伝える。 原則非公開だが、春秋の彼岸など墓参期間には見学できる場合がある。

  • 空襲犠牲者「追悼之碑」

    境内の千里川寄りに立つ高さ2メートル余の御影石製慰霊塔。 表面に「追悼之碑」と刻まれ、裏面には昭和20年6月7日の豊中空襲で「四十有余命」が犠牲となった事実が記されている。 平成6年(1994年)、空襲から50年の節目に檀信徒らの発願で建立された。 毎年6月には法要が営まれ、地域住民とともに平和への祈りが捧げられている。 普段は静かに佇みながら、戦争の記憶を後世に伝える平和モニュメントとして訪れる人も多い。

浄行寺のあゆみ

  • 1399年(応永6年)

    楠木正秀による創建

    楠木正秀(後の浄信上人)が摂津国豊島郡走井村の杉原氏を頼り落ち延び、出家して正光山浄行寺を開く。 楠木氏と杉原氏の名を合わせ「楠原」と改姓し、以後楠原家が住職家として法灯を継承。

  • 1614年(慶長19年)

    大坂冬の陣と再興

    大坂冬の陣の戦火により伽藍が焼失。第四世・浄祐(楠原正源)が西本願寺の支援を受けて走井村内に再建。 以降、現在地にて浄行寺の法灯が受け継がれる。

  • 江戸中期

    火災と記録の焼失

    第八世・了慶の代に火災が発生し、創建当初からの古文書や由緒書を失う。 寺史は僅かな口碑や墓碑を通じて伝えられている。

  • 1707年(宝永4年)

    お染久松の実説を記す過去帳

    寺の過去帳に「走井村浄行寺次男坊久松」の名が記され、油屋お染久松心中事件との関わりを示す。 郷土史家により『新版歌祭文』の実在モデルと判明し、寺の文化史的価値が高まる。

  • 1945年(昭和20年)

    豊中空襲と慧上師殉難

    6月7日未明、豊中市走井に空襲。周辺一帯に一トン爆弾が投下され、住民約40名が犠牲となる。 浄行寺本堂は避難所・霊安所となり、当時の住職・楠原慧上師も殉難。 戦後は地域の復興を支える精神的支柱として再建。

  • 1994年(平成6年)

    追悼之碑の建立

    空襲犠牲者の50回忌にあわせて御影石製の「追悼之碑」を建立。 毎年6月に慰霊祭が行われ、地域住民と檀信徒が平和を祈る恒例行事となる。

  • 2019年(令和元年)

    地域観光資源として紹介

    岡町・桜塚商店街の歴史散策マップに「楠木正成につながる浄行寺」として掲載。 豊中市の歴史・文化スポットとして観光や郷土学習に活用される。

  • 令和時代(現在)

    保存と継承

    境内整備や老朽建物の改修を進めながら、地域寺院として法要や行事を継続。 豊中市教育委員会の文化財ガイドでも紹介され、郷土史学習や街歩きの拠点となっている。

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