| 所在地 | 大阪府大阪市北区堂島3-3-5 |
|---|---|
| TEL | 06-6451-2781 |
| 山号 | 妙行山(みょうぎょうざん) |
| 宗派 | 日蓮宗 |
| 文化財・史跡 |
矢頭長助・矢頭右衛門七の墓(赤穂浪士ゆかり) 五大力墓(上方歌舞伎『五大力恋緘』関連) ※いずれも大阪市教育委員会による歴史解説対象 |
浄祐寺(じょうゆうじ)は、大阪市北区・堂島に佇む日蓮宗の都市型寺院で、境内には赤穂浪士・矢頭長助とその子・右衛門七の墓が残されています。 長助は討ち入り前に病没しましたが、その遺志を継いだ右衛門七は主君の仇討ちに加わり、吉良邸討ち入りを果たしたと伝えられます。 また境内には、1737年(元文2)に曽根崎新地で実際に起きた五人殺傷事件の犠牲者を弔う「五大力墓」があり、この出来事はのちに 上方歌舞伎の人気作『五大力恋緘(ごたいりきこいのふうじめ)』として劇化され、当時の人々の心をつかみました。 浄祐寺は観光寺院ではなく堂内拝観は原則非公開ですが、歴史の痕跡を今に伝える墓碑や石碑を静かに見学できる場として、多くの歴史愛好家に親しまれています。
国道2号線から少し奥まった場所に山門が構えられ、その先に本堂が建ちます。 都心のビル群に囲まれながらも、境内は静かで落ち着いた雰囲気を保っており、 参詣者が墓前で手を合わせる小ぢんまりとした佇まいが特徴です。 堂内拝観は原則非公開で、外観見学が基本となります。
浄祐寺の代表的史跡である矢頭父子の墓は、赤穂浪士の物語を今に伝える重要な文化遺産です。 父・長助は討ち入り前に病没し、右衛門七(浅野内匠頭の小姓)が父の意思を継いで吉良邸討ち入りに参加しました。 路銀が尽きた右衛門七が里人に借金した際、その返済を大石良雄が5両で果たした逸話が伝わっており、 その顛末を知った人々が当地に墓を築いたとされます。境内に並ぶ父子の墓碑は、堂島に根付いた忠臣蔵伝承を静かに語り続けています。
1737年(元文2)に曽根崎新地で発生した五人殺傷事件の犠牲者供養塔で、実際の出来事を弔うために建立されました。 この事件はすぐに浄瑠璃・歌舞伎の人気演目『五大力恋緘(ごたいりきこいのふうじめ)』として上演され、 江戸・上方の庶民文化に大きな影響を与えました。境内の石塔には、当時の人々の追悼の思いが刻まれています。
境内には、矢頭右衛門七顕彰碑(矢頭教兼碑)など複数の石碑が残されており、 忠臣蔵の記憶、堂島の河川・橋・遊里文化、上方芸能史など多層的な歴史が交わるポイントになっています。 史跡散策の要所として訪れる人も多く、文化史研究の視点からも注目される寺院です。
創建不明
創建年代は不詳だが、現在地(大阪市北区堂島3-3-5)に日蓮宗寺院として早くから存在したことが記録されている。
1700年代初頭
父・長助は討ち入り前に病没し、子・右衛門七が遺志を継ぎ吉良邸討ち入りに参加。 その忠義と物語性から、当地に父子の墓が建立されたと伝えられる。
1737年
(元文2年)
曽根崎新地で武士による五人殺傷事件が発生。犠牲者追悼のため、後年「五大力墓」が境内に建立され、 上方芸能『五大力恋緘』の題材としても知られる史跡となる。
1909年
(明治42年)
堂島周辺を襲った「北の大火」で浄祐寺も被災し、堂宇を焼失したとされる。 ただし墓碑は焼失を免れた記録が残り、史跡として今日まで伝わる。
1945年
(昭和20年)
第二次世界大戦の大阪大空襲で建物は再び焼失するが、墓所は一部損傷にとどまり現存する。 戦後に本堂・伽藍が再建された。
現在
矢頭父子の墓と五大力墓が残る歴史寺院として知られ、堂内拝観は原則非公開。 参拝・見学は外観と墓碑が中心で、歴史散策の重要スポットとなっている。