| 所在地 | 大阪府大阪市北区浪花町12-5※天神橋筋六丁目駅より徒歩約1分 |
|---|---|
| TEL | 06-6371-9629 |
| 宗派 | 浄土真宗本願寺派(西本願寺) |
| 山号 | 日下山(にっかさん) |
| 本尊 | 阿弥陀如来(顕如上人下付の名号) |
| 創建 | 元亀4年(1573年) |
| 開基 | 願念法師(俗名:楠 惣左衛門) |
| 文化財 | 法正寺真宗関係史料(六字名号・九字名号・十字名号など20点一括、大阪市指定有形文化財) |
法正寺は大阪市北区浪花町にひっそりと佇む、浄土真宗本願寺派(西本願寺)の古刹です。創建は元亀4年(1573年)、本願寺第11世・顕如上人の直弟子となった願念(がんねん)法師によるものです。願念法師は俗名を楠惣左衛門といい、北伊勢の城主・楠十郎左衛門正友の一族の出身でした。
織田信長による伊勢攻めで敗れた後、大坂の石山本願寺方に加わって戦いに尽力し、武将としての戦功を挙げた人物でもあります。その後、顕如上人に帰依して出家し「願念」と法名を改め、上中島(三番村、現・東淀川区豊里周辺)に移り住んで一寺を建立したことが法正寺の始まりとされています。創建当初は寺号を「宝正寺」と記した記録も残りますが、後に現在の「法正寺」と表記されるようになりました。
願念法師は石山本願寺籠城戦の終盤まで本願寺方として尽力し、その功績により顕如上人から十字名号(「帰命尽十方無碍光如来」と記された御本尊)を下付されました。この名号は現在も法正寺に伝わる「開基御本尊」として大切に安置されています。
安土桃山時代から江戸時代にかけて、法正寺は地域門徒の信仰道場として栄えました。特に第7世住職・如実院宗圓の代には伽藍の整備が進み「中興の祖」と仰がれています。また第9世住職・如実院知禮は荒廃していた堂島の正念寺を復興するなど、寺外へも影響力を持った住職として知られます。
明治維新後も寺は存続し、明治初期には寺子屋から新制小学校への移行に伴い、本堂が第四大区第七番小学校として使用されるなど、地域教育にも貢献しました。しかし近代に入り、淀川改修工事(大規模な付け替え事業)により、旧所在地である上中島三番村一帯が川底となる事態が発生。法正寺は明治33年(1900年)頃、門徒とともに現在の東淀川区豊里へ移転することとなりました。
旧寺地であった「三番村」は淀川流域の真宗門徒の拠点集落として知られ、その集団移転先が豊里となり、法正寺もそこに本堂を構えています。一方、浪花町には小規模な堂宇が残り、地域の門徒を支える存在として存続してきました。現在の浪花町の法正寺は一般公開されていませんが、石山合戦から続く約450年の歴史を今に伝える寺院として静かに佇んでいます。
法正寺は都市部に位置し、境内規模は小さく、外観は周囲の住宅やマンションに自然に溶け込むような佇まいです。伝統的な山門や楼門は見られず、一見すると個人宅のようなシンプルな姿で、本堂や庫裡も比較的新しい建築となっています。
旧堂宇は淀川改修や都市開発により失われ、現在の法正寺は鉄筋コンクリート造の庫裡と、木造平屋建ての本堂で構成されています。建築自体は文化財指定を受けていませんが、内部には阿弥陀如来をご本尊とし、親鸞聖人や歴代門主の御影などが安置されていると考えられます(非公開)。
本堂正面には寺号を記した小さな看板と表札が掲げられるのみで、注意して見なければそのまま通り過ぎてしまうほどの静かな佇まいです。都市の喧騒の中にありながら、古刹らしい落ち着きを感じさせます。
法正寺の歴史的価値を最もよく示すのが、建築物ではなく所蔵文化財です。顕如上人直筆と伝わる「十字名号」や室町期の「六字名号」など、真宗史上重要な掛軸類を含む計20点の史料が「法正寺真宗関係史料」として大阪市指定有形文化財に登録されています。
史料群には、本尊として奉掛された名号の古書、廃寺となった上福島の正念寺から継承された古文書などが含まれ、中世後期から近世にかけての浄土真宗の布教と大阪地域への定着を物語る貴重な歴史資料となっています。いずれも通常は非公開ながら、寺院の歴史的価値を支える重要な財産です。
1573年
(元亀4年)
願念法師(楠惣左衛門)が顕如上人の弟子となり、上中島三番村に法正寺を創建。顕如より本尊となる名号を下付され、石山合戦で傷ついた門徒たちを支える道場として機能した。
1580年
(天正8年)
石山本願寺開城により戦いが終結。願念法師は本願寺教団再興に協力し、その功績により顕如上人から十字名号(「帰命尽十方無碍光如来」)を賜る。寺宝「開基御本尊」として現在に伝わる。
江戸時代中期
第七世住職・如実院宗圓が伽藍整備に尽力し、荒廃していた境内を再興。「中興の祖」と仰がれ、寺勢が安定する基礎を築いた時期とされる。
文化年間
(19世紀初頭)
第九世住職・如実院知禮が荒廃していた堂島の正念寺(浄土真宗寺院)を再興。法正寺は地域の他寺院の維持にも寄与し、大坂における真宗教団の発展に貢献した。
1872年
(明治5年)
学制発布により、法正寺本堂が第四大区第七番小学校として開校。寺院が地域教育の場として活用され、現在の大阪市立豊里小学校の前身の一つとなった。
1897年〜1900年
(明治30〜33年)
周辺地域が大阪市に編入され、のちの浪花町が町名として成立。法正寺周辺も都市計画の一角となり、環境が大きく変化する時期を迎える。
1900年
(明治33年)
大規模な淀川改修工事により上中島三番村が川底となり廃村。法正寺は門徒とともに東淀川区豊里(当時:西成郡豊里村)へ移転。旧寺地は河川敷となり消滅した。
1945年
(昭和20年)
大阪大空襲では天神橋・大淀方面が大きな被害を受けたが、豊里にあった法正寺本堂は戦災を免れたとされる。戦後も豊里の本堂と浪花町の堂宇で寺務を継続した。
2016年
(平成28年)
顕如筆名号や室町〜江戸期の古文書など計20点が「法正寺真宗関係史料」として大阪市指定有形文化財に登録。寺の歴史的価値が公的に評価される。
現在
(令和時代)
法正寺は一般公開されないながらも、豊里の本堂では法要が営まれ、浪花町の堂宇は地域門徒の拠点として存続。石山合戦以来450年にわたる歴史を今日に伝え続けている。