| 所在地 | 大阪府大阪市住吉区東粉浜1-6-5 |
|---|---|
| 電話 | 06-6671-6229 |
| 宗派 | 浄土真宗本願寺派 |
| 山号 | 成等山 |
| 本尊 | 阿弥陀如来 |
| 創建 | 慶長6年(1601年) |
大阪市住吉区東粉浜に位置する正覚寺は、浄土真宗本願寺派に属する寺院で、山号を成等山(じょうとうざん)と称しています。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いをきっかけに開かれたと伝えられており、当時の三田藩主が戦の惨禍に無常を感じて出家し、慶長6年(1601年)に摂津国能勢郡の多田銀山の地に寺院を構えたのが始まりとされています。
その後、江戸時代中期までに大坂市中の江戸堀へ移転し、約二世紀にわたり同地に寺基を置いています。昭和14年(1939年)、第18世住職・釋玄雍(しゃくげんよう)の代に現在地(住吉区東粉浜)へ伽藍が移転されており、江戸時代から伝わる意匠を極力保存しながら再建されています。本尊には阿弥陀如来が安置されており、切妻造の質朴な堂宇が浄土真宗寺院の伝統的な姿を今に伝えています。
本堂内の襖絵は現代アーティスト・井出創太郎氏(愛知県立芸術大学准教授)の手による銅版画作品で、平成19年(2007年)から始まったアートプロジェクトの一環として制作されています。伝統的な寺院建築と現代美術が共存するユニークな試みとして注目されており、歴史と現代が交差する空間となっています。
一般の拝観は行っていませんが、地域の法要や行事の場として信徒に開かれています。平成15年(2003年)には現住職が第20世として晋山し、寺伝の維持と現代的な活動に努めています。江戸時代の建造物と浄土真宗の信仰を後世に伝え続ける寺院となっています。
江戸時代中期の建築で、江戸堀時代の伽藍を縮小・移築したものとなっています。切妻造の質朴な堂宇の中に本尊の阿弥陀如来が安置されており、堂内には現代アーティスト・井出創太郎氏による銅版画の襖絵も飾られています。
本堂に隣接する書院も江戸時代中期の建築を移築したもので、寺の接客や会合に使用されています。歴史的な建築意匠を残しながら、現在も寺院の活動の場として機能し続けています。
東粉浜の住宅街に面した山門は、地域に溶け込んだ落ち着いた佇まいとなっています。門をくぐると静かな境内が広がり、江戸時代から受け継がれてきた伽藍の歴史を感じさせる空間が現れています。
1600年
(慶長5年)
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの惨禍を経て、当時の三田藩主が無常を感じて仏門に入る決意を固めています。法名を釋了西(しゃくりょうさい)と改め、浄土真宗の教えに帰依することで、後の正覚寺創建の契機となっています。
1601年
(慶長6年)
出家した三田藩主により、摂津国能勢郡の多田銀山の地に寺院が建立され、成等山正覚寺と称しています。戦乱終結後の人々の心の拠り所として歩み始め、浄土真宗本願寺派の寺院として信仰を集めるようになっています。
江戸時代中期
多田銀山から大坂市中の江戸堀へ寺基を移し、以後約二世紀にわたり同地で門徒の信仰を支えています。この時期に現在も残る本堂や書院が建立されており、切妻造の伝統的な意匠を備えた堂宇として整えられています。
1868年
(明治元年)
明治維新を迎え、大坂(大阪)の都市構造が大きく変化する中、正覚寺は江戸堀の地で引き続き門徒の信仰を支え続けています。廃仏毀釈の影響は浄土真宗寺院には比較的少なく、檀信徒に支えられて寺院運営が維持されています。
1939年
(昭和14年)
第18世住職・釋玄雍の主導で、江戸堀から現在地の住吉区東粉浜へ本堂・書院など主要伽藍が移築されています。移転に際して堂宇は従前の規模を若干縮小しつつも、江戸時代から伝わる意匠を極力保存して再建されています。
1945年
(昭和20年)
太平洋戦争末期の大阪大空襲では周辺地域も被害を受けていますが、移転からわずか数年後の正覚寺の伽藍は戦災を免れて存続しています。江戸時代の建築遺産を守りながら、戦後も地域に根差した寺院として歩み続けています。
2007年
(平成19年)
現代アーティスト・井出創太郎氏による銅版画作品の襖絵プロジェクトが開始されています。伝統的な寺院建築と現代美術が共存するユニークな試みとして注目を集め、歴史と現代が交差する新たな空間が生まれています。
現在
(令和時代)
第20世住職のもと、正覚寺は江戸時代の建造物を大切に守りながら現代的な活動にも取り組んでいます。一般拝観は行っていませんが、関ヶ原の戦いを契機に生まれた寺院の歴史と浄土真宗の信仰を後世に伝え続ける存在となっています。