| 寺院名 | 正行寺(しょうぎょうじ) |
|---|---|
| 所在地 | 大阪府大阪市西淀川区佃1丁目3-9 |
| 山号 | 究竟山(きゅうきゅうざん) |
| 宗派 | 浄土真宗本願寺派 |
| 本尊 | 阿弥陀如来(木造立像または絵像と推定) |
| 創建 | 江戸時代初期(17世紀頃・詳細不詳) |
正行寺は、大坂の佃村(現・大阪市西淀川区佃)に暮らした漁民たちの信仰を支えてきた浄土真宗本願寺派の寺院です。徳川家康が天正14年(1586年)に摂津国佃の漁民の協力によって神崎川の渡しを利用した縁から、佃村の漁民は江戸幕府より税免除などの特権を与えられ、寛永年間(1624~1644年)にはその一部が江戸の佃島へ移住しました。佃島には、佃村の住吉社(田蓑神社)の御分霊を祀る住吉神社が創建され、両地の結びつきはより深まっていきます。
正行寺は、こうした漁民たちが地元佃に残した浄土真宗の道場として成立した寺院で、開山や正確な創建年は明らかではないものの、江戸時代初期には創建されたと考えられています。寺院名の「正行寺」は、浄土真宗で重んじられる念仏の行である「正行(しょうぎょう)」に由来し、山号の「究竟山」は仏教語で「究竟涅槃(くきょうねはん)」、すなわち悟りの境地を意味する言葉に基づいています。
江戸佃島の開拓に尽力した佃村庄屋・森孫右衛門(もり まごえもん)は、晩年に故郷佃へ戻り、寛文2年(1662年)に94歳で没後、正行寺に葬られました。現在も境内には森孫右衛門の墓が残されており、江戸佃島との深い歴史的つながりを今に伝える象徴となっています。
また、明治初期の学制発布に伴い佃村に小学校が創立された際、1874年(明治7年)2月5日の開校当初には、正行寺の堂宇が仮校舎として使用されました。その後、新校舎の建設により、1878年(明治11年)9月に小学校は現在地へ移転しています。昭和期の大阪大空襲では佃地区も甚大な被害を受けましたが、正行寺は戦後に本堂などの修復・再建が行われ、今日まで寺院としての歩みを続けてきました。
現在も正行寺では、地域の門徒による報恩講や、毎月20日午後2時からの常例法座などが営まれ、佃の地に根差した信仰の拠点として大切に受け継がれています。
正行寺の表門にあたる山門は、切妻造瓦葺きの簡素な構えです。門柱上部には浄土真宗本願寺派を象徴する下がり藤の寺紋が掲げられ、静かに境内への入口を示しています。通常は門扉が閉ざされており、門越しに境内の様子をうかがうかたちとなっています。
山門正面に位置する本堂は、浄土真宗の御堂造りの様式を備えた堂宇です。内部正面には阿弥陀如来のご本尊が安置され、親鸞聖人の御影堂も併設されています。第二次世界大戦後に再建・補修された木造平屋建てで、瓦葺きの落ち着いた外観を保っています。平常時は非公開ですが、法要の際には門徒が参集します。
本堂裏手には寺院墓地が広がり、歴代住職や檀家の墓石が整然と並んでいます。中でも、佃漁民の庄屋として江戸佃島開発に尽力した森孫右衛門の墓所が知られており、黒みがかった石塔がひときわ存在感を放っています。一般参拝者は墓地内への立ち入りはできませんが、外から遠望することができます。
江戸時代初期
(17世紀前半)
正行寺が創建されたと伝えられています。開山や正確な創建年は明らかではありませんが、佃村の漁民を中心とする浄土真宗の道場として成立したと考えられています。
1662年
(寛文2年)
佃村初代庄屋で、江戸佃島開発の功労者である森孫右衛門が94歳で没し、正行寺に葬られました。現在もその墓所は、佃と江戸佃島を結ぶ歴史の象徴として伝えられています。
1874年
(明治7年)2月5日
学制にもとづき西成郡佃村に佃小学校が開校し、当初は正行寺本堂が仮校舎として使用されました。地域教育の黎明期を支えた寺院としての一面がうかがえます。