所在地 | 大阪府箕面市新稲2-11-29 |
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宗派 | 曹洞宗 |
山号 | 布袋山 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
創建 | 元禄元年(1688年)、吉田四郎兵衛(吉田ト斉)により創建 |
開山 | 大応智勇(だいおうちゆう) |
札所 | 摂津国北部三十三ヶ所観音霊場・第29番札所 |
栄松寺(えいしょうじ)は大阪府箕面市にある曹洞宗のお寺で、山号を「布袋山」と称します。その由来は、開山となった大応智勇が入山前夜に福徳の神・布袋尊が招く夢を見たことによる伝承で、寺名のとおりユーモラスな布袋様に守られた寺と言えるでしょう。創建は江戸時代初期の元禄元年(1688年)、新稲村の開発者で庄屋でもあった吉田四郎兵衛(吉田ト斉)が亡き母の菩提を弔うため一宇を建立したのが始まりです。開山として迎えられた大応智勇のもと、創建当初は本堂や山門をはじめ七堂伽藍を兼ね備え、全国から雲水(修行僧)が集まる曹洞宗屈指の修行道場として隆盛を極めました。
江戸時代中期、この寺は赤穂義士ゆかりの逸話を持つことでも知られます。創建者の吉田家に嫁いでいた小きん(おきん)は、あの「忠臣蔵」で有名な赤穂浪士・萱野三平の実姉にあたります。小きんが享保8年(1723年)に没した際、その法名「円覚院桂月知栄大姉」の「栄」の字をとって、寺号が元の「永松庵」から現在の「栄松寺」へと改められました。境内北側の吉田家墓地には彼女の墓所も残されており、ひっそりと往時を伝えています。
また、萱野三平自身も赤穂事件当時に苦悩の末自刃した人物ですが、その前日にはこの新稲の地を訪れ姉の小きんと言葉を交わし、「あねさま、とんと、おさらばでございます」(姉上、これで本当にお別れです)と振り返り別れを告げたと伝えられています 。寺の静かな佇まいの裏には、このような忠義と家族愛の物語が秘められているのです。
境内へは石段の参道が伸び、その入口に山門(寺の門)が構えられています。山門脇には寺号を記した石柱が立ち、よく見ると「曹洞宗布袋山永松庵」と旧寺号が刻まれており、歴史を感じさせます 。石段には手すりも設置されており、訪れる人に優しい造りです。参道の左右には樹木が美しく刈り込まれた庭が配され、右手には白い石像の観音菩薩立像が立っています 。左手には赤い涎掛けをつけたお地蔵さんの姿もあり、訪れる人々を静かに見守るようです。境内は小高い位置にあるため見晴らしが良く、眼下に広がる街並みを望むことができます 。門前の向かい側には池もあり、水辺の景観が寺の静けさに彩りを添えています 。
中央に建つ本堂は、入母屋造りの大屋根を持つ堂々とした木造建築です。現在の本堂は比較的新しく再建されたもので、白壁と濃茶の柱梁のコントラストが鮮やかな明るい外観をしています 。
正面には石灯籠や鉢植えが配され、丁寧に手入れされた前庭越しに立派な御堂を拝観できます。内部には本尊である阿弥陀如来像が安置され、柔和なお顔で参拝者を迎えてくれます 。また霊場札所でもあることから聖観世音菩薩像(聖観音)も祀られており、巡礼で訪れた人々が観音様に手を合わせる姿も見られます。境内には他にも鐘楼や庫裡(くり、寺務所)などが配置されていましたが、七堂伽藍を備えた往時と比べると現存する建物は限られています。それでも整然と整えられた伽藍と庭は清潔感にあふれ、隣接する短期大学のキャンパスから行き交う学生たちの姿もあって、寺全体が明るく開放的な雰囲気に包まれています 。
1688年
(元禄元年)
河辺郡加茂出身で新稲村の庄屋となった吉田四郎兵衛(吉田ト斉)が、母の菩提を弔うため新稲に「永松庵」を建立。開山は大応智勇で、入山前夜に布袋尊のお告げの夢を見たことから寺の山号を「布袋山」と称する。創建当初より七堂伽藍を完備し、全国から修行僧が集う曹洞宗の名刹として栄える。
1703年
(元禄16年)
【赤穂事件】萱野三平(赤穂浅野家の元家臣)は、主君の仇討ちに加わらず母のため帰郷し、苦悩の末に自刃。その前日に新稲の姉・小きんを訪ねて世間話を交わし、別れ際に「姉さま、これでおさらばでございます」と告げて立ち去ったと伝わる。
1723年
(享保8年)
小きん(萱野三平の姉)が死去。戒名「円覚院桂月知栄大姉」にちなみ、寺号を永松庵から「栄松寺」へ改称。小きんは吉田家の人々とともに寺北側の吉田家墓地に葬られ、現在も墓碑が現存している。