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仏日山 東光院ぶつにちざん とうこういん

奈良時代に行基が開いたと伝わる、豊中・曽根の名刹「萩の寺」

所在地 大阪府豊中市南桜塚1-12-7
宗派 曹洞宗
山号 仏日山(ぶつにちざん)
本尊 薬師如来
創建 天平7年(735年)〈伝・行基〉
開山 行基(伝承)
別称 萩の寺
札所等 新西国三十三箇所第12番霊場・西国七福神(毘沙門天)

奈良時代創建の古刹 ― 「萩の寺」東光院の歴史と信仰

東光院の起源は奈良時代・天平7年(735年)にさかのぼります。 行基菩薩が「浜の墓」と呼ばれていた淀川沿いの地(現在の大阪市北区中津付近)で、 日本で初めて火葬法を人々に授け、自ら薬師如来像を造立し萩の花を手向けたのが始まりとされています。 その後、人々の浄財によって薬師堂が建立され、「薬師堂」として信仰を集めました。 延宝9年(1681年)には相模国功雲寺の霊全和尚が入寺し、曹洞宗に改宗。寺号を「東光院」と改めました。 文化年間(1804〜1818年)には大坂の豪商たちの寄進により彌天一州禅師が中興し、 「南の四天王寺、北の東光院」と称されるほどの隆盛を誇りました。

明治維新後の廃仏毀釈では、大阪市川崎村にあった東照宮の仏堂(瑠璃殿)および徳川家康ゆかりの厄除薬師如来像を 当寺が引き取り、明治6年(1873年)に境内に移築・安置しました。 さらに明治36年(1903年)には、豊臣秀吉が小田原征伐の陣中で勧請した妙覚道了大権現を祀るお堂を 縁あって境内に移しました。大正3年(1914年)、阪急電鉄の沿線開発に伴い大阪市内から豊中市曽根の現在地へと移転し、 以後この地で法灯を守り続けています。

東光院は長い歴史を通じて多くの文化財と信仰を今に伝えています。 境内には、徳川家康の長女・亀姫寄進と伝わる厄除薬師如来坐像、 豊臣秀吉公ゆかりの妙覚道了大権現尊像、後醍醐天皇の念持仏である十一面観音立像(通称「こより観音」)、 そして隠岐島から伝来したあごなし地蔵尊など、霊験あらたかな諸仏が安置されています。 また境内に植えられた萩は古来より大切に守られており、秋には13種・約3,000株の萩が咲き誇ります。 この時期には「萩まつり・道了祭」が開催され、多くの参拝者で賑わいます。

正岡子規や高浜虚子をはじめとする俳人墨客も萩を賞でに訪れ、句を残したことで知られ、 境内には彼らの句碑も建立されています。 さらに毎月第3土曜日には坐禅会、第1土曜日には写経会が行われており、 現代においても仏教文化の体験と信仰の場として広く親しまれています。 奈良時代創建の古刹として、東光院は今も「萩の寺」として人々の心に安らぎを与え続けています。

  • 本堂(仏日山吉祥林圓通殿)

    平成11年(1999年)に再建された入母屋造本瓦葺の堂宇で、「仏日山吉祥林圓通殿(えんつうでん)」とも称される。 本尊・秘仏の薬師如来坐像をはじめ、新西国霊場の十一面観音立像(こより観音)、毘沙門天立像、 そして平安後期作の木造釈迦如来坐像(重要文化財)など、多数の仏像を安置している。 堂内は厳かな雰囲気に包まれ、信仰と美術の調和を感じさせる空間である。

  • 山門(薬医門)

    宝暦7年(1757年)建立の薬医門(やくいもん)。総欅造りの重厚な構造で、風格ある佇まいを誇る。 阪神・淡路大震災で大きく損傷したが、1995年に修復され再びその姿を取り戻した。 境内の歴史を見守ってきた名門であり、寺院の象徴ともいえる存在。

  • 鐘楼

    境内の一角に建つ鐘楼堂。吊るされた梵鐘は、毎年大晦日に「除夜の鐘」として撞かれ、 一年の締めくくりを告げる清らかな音色を響かせる。参拝者にとっては年越しの風物詩であり、 静寂の中に響く鐘の音が心を洗う。

  • 萩露園(庭園)

    北大路魯山人が命名した萩の庭園で、「大阪みどりの百選」に選ばれている。 境内には約13種・3,000株もの萩が植えられており、秋には「萩のトンネル」が出現する。 萩の花が咲き乱れる景観は圧巻で、「萩まつり・道了祭」開催時には多くの参拝者で賑わう。 自然と信仰が調和する、東光院を代表する名勝である。

  • 道了大権現堂

    豊臣秀吉が天正18年(1590年)小田原征伐の際に戦勝祈願して勧請した「妙覚道了大権現」を祀る堂。 もとは大坂市内玉江橋付近にあったお堂を、明治36年(1903年)に東光院境内へ移築したもの。 室町時代の禅僧・道了上人が神格化された権現で、関東では「小田原の道了さん」としても信仰を集める。

  • 東照閣仏舎利殿(瑠璃殿)

    徳川家康を祀った旧川崎東照宮の本地堂「瑠璃殿」を、明治6年(1873年)に当院へ移築。 家康の長女・亀姫が寄進したと伝わる厄除薬師如来像を安置し、豊中市指定有形文化財に登録されている。 江戸・徳川期の信仰文化を今に伝える貴重な建造物である。

  • あごなし地蔵堂

    島根県隠岐島の旧・伴桂寺に安置されていた地蔵菩薩像を祀る堂。 廃仏毀釈の際に東光院が受け入れたもので、像の顎が欠けていることから「無顎(あごなし)地蔵尊」と呼ばれる。 あらゆる願いを叶えると伝えられる秘仏で、50年に一度だけ御開帳される。 東光院の信仰を象徴する霊像のひとつである。

東光院のあゆみ

  • 天平7年(735年)

    行基による創建伝承

    行基が淀川沿いの「浜の墓」で日本初の火葬を人々に教え、 自ら薬師如来像を造立して萩を供えたのが東光院の始まりと伝えられる。 この薬師如来は後に「一願薬師」として信仰を集めることとなる。

  • 延宝9年(1681年)

    霊全和尚による再興と宗派改宗

    相模国功雲寺の霊全和尚が入寺し、曹洞宗に改宗。 寺号を「東光院」と改め、禅の教えを伝える寺としての基盤を築いた。

  • 文化年間(1804〜1818年)

    寺運の隆盛

    殿村平右衛門・中原庄兵衛ら大坂の豪商の寄進により、彌天一州禅師が寺運を中興。 「北の東光院、南の四天王寺」と称されるほどに隆盛を極める。

  • 明治6年(1873年)

    瑠璃殿と厄除薬師如来の遷座

    廃仏毀釈により廃社となった川崎東照宮の本地堂(瑠璃殿)および 徳川家康ゆかりの厄除薬師如来像を境内に遷座。 以降、寺院の守護と地域信仰の象徴となる。

  • 明治36年(1903年)

    道了大権現堂の移築

    豊臣秀吉が勧請し、大坂市内に祀っていた道了大権現の堂宇を境内へ移築。 戦国期からの信仰遺構が新たに加わり、寺の歴史的価値を高めた。

  • 大正3年(1914年)

    豊中市曽根への移転

    阪急電鉄創業者・小林一三の要請により、大阪市北区中津から現在地へ寺基を移転。 豊中市曽根に新たな地を得て、現在の「萩の寺」としての姿を整える。

  • 昭和60年(1985年)

    こより観音の修復と発見

    本尊・十一面観音立像(こより観音)の修復により、 経文を捻った紙縒(こより)を衣に見立てた極めて珍しい造りであることが判明。 仏像修復史に残る貴重な発見となった。

  • 平成7年(1995年)

    阪神・淡路大震災と本堂再建

    阪神・淡路大震災により本堂が大破する被害を受ける。 その後、平成11年(1999年)に新たな本堂が再建され、再び法灯が灯される。

  • 平成9年(1997年)

    仏足石の寄贈

    スリランカ・ケラニヤ大寺の管長より、寺の秘宝として仏足石の寄贈を受ける。 東光院と南方仏教との交流を象徴する出来事となる。

  • 平成12年(2000年)

    釈迦如来白仏(ホワイト・ブッダ)奉安

    スリランカ仏教徒会議より釈迦如来白仏像を奉安。 異国の仏教文化と日本の禅宗が融和する象徴として、 東光院の国際的な信仰の広がりを示すものとなった。

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