| 寺院名 | 最勝寺(さいしょうじ) |
|---|---|
| 所在地 | 大阪府大阪市西区北堀江1-6-18 |
| 山号 | 深廣山(しんこうざん) |
| 宗派 | 浄土真宗(真宗大谷派〈東本願寺系〉) |
| 本尊 | 阿弥陀如来(南無阿弥陀仏) |
| 創建 | 明応3年(1494年) |
| 開基 | 深信坊了西(佐野次郎政道) |
| 文化財 | 最勝寺真宗関係史料(教如上人書状など12点/大阪市指定有形文化財) |
最勝寺(さいしょうじ)は、大阪市西区北堀江に所在する真宗大谷派の寺院です。 明応3年(1494年)、深信坊了西(俗名:佐野次郎政道)によって創建され、 以来500年以上にわたり大阪の地で信仰と歴史を受け継いできました。 戦乱や都市の発展に伴い幾度か寺地を移転し、明治期に現在の北堀江の地へと落ち着いています。 寺には16世紀末から17世紀初頭にかけての教如上人の書状など、真宗史を伝える貴重な史料が伝来し、 これらは大阪市指定有形文化財に指定されています。 なお、現在は一般参拝は行われておらず、門徒向けの行事や法要時のみ開かれる寺院です。
第二次世界大戦後の昭和41年(1966年)、鉄筋コンクリート造の近代的な本堂が現在地に再建されました。 伝統的な寺院意匠と戦後期の建築様式を併せ持つ堂宇で、最勝寺における法要や門徒行事の中心となる空間です。 なお、通常時は内部非公開となっています。
本願寺教如上人(顕如上人の子で、東本願寺初代門主)から、 当寺四代目住職・道了宛に送られた書状で、石山合戦終結前後の慶長年間(1590年代頃)に筆写されたと伝えられます。 戦火を免れて今日まで伝来した中世から近世初期の貴重な史料であり、 他の真宗関係古文書11点とともに「最勝寺真宗関係史料」として大阪市指定有形文化財に指定されています。
境内入口には、質素な一間薬医門風の山門が構えられています。 都会のビルに囲まれた環境の中にひっそりと建つ小ぶりな門で、 長い歴史をもつ寺院の存在感を静かに伝えています。 一般参拝は行われていないため、門は常時閉ざされており、 外観から寺域を窺うのみとなります。
1494年
(明応3年)
真宗の熱心な在家信者であった深信坊了西(佐野次郎政道)が、摂津国住吉郡杉本村(現・大阪市住吉区)に道場を建立し、これが最勝寺の起源となる。本尊の阿弥陀如来像はこの時、本山・本願寺から下付されたと伝えられる。
1598年
(慶長3年)
豊臣秀吉の治世、四代住職・道了の代に本山・本願寺第十三世宣如上人より正式に「深廣山最勝寺」の寺号を賜り、町道場から寺院としての格式が定まる。同時期に寺基を大坂天満(現・北区天満付近)へ移し、以後江戸期を通じて都市部の念仏道場として発展した。
1837年
(天保8年)
大坂町奉行所元与力の大塩平八郎が起こした反乱に巻き込まれ、当時寺が所在していた大坂城下内平野町の堂宇が戦火により焼失。この動乱で寺蔵の古文書や寺宝の大半も失われ、寺は一時逼塞を余儀なくされた。
1895年
(明治28年)
第16世住職・了宣の代、市街地拡大に伴う区画整理の中で現在地である大阪市西区北堀江の地に寺基を移転。同時に本堂・庫裏を新築し、都市部で寺院を再興。以後、周辺地域の門信徒の拠点として歩み始める。
1945年
(昭和20年)
太平洋戦争末期、3月13日深夜の大阪大空襲で最勝寺の堂宇が悉く焼失。戦後、住職一家は一時阪神間へ疎開し、荒廃した境内は長らく更地となるも、門信徒の尽力により復興計画が進められた。
1966年
(昭和41年)
焼失から21年を経て、第18世住職・宣明のもと近代的な鉄筋コンクリート造の本堂が完成。伝統的意匠を取り入れた堂宇の再建により、年中行事や法要が再開され、地域の寺院としての活動が本格的に復興した。
2021年
(令和3年)
戦国期から江戸初期にかけて当寺に伝来した教如上人の直筆書状など真宗関係史料12点が「最勝寺真宗関係史料」として大阪市指定有形文化財に指定される。石山合戦や大坂の陣を生き延びた貴重な寺宝が公的に認められ、最勝寺の歴史的価値が改めて脚光を浴びることとなった。