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明悟院みょうごいん

大広寺の塔頭として創建され、明治期に豊中へ移転した曹洞宗寺院

所在地 大阪府豊中市岡上の町1-1-8
宗派 曹洞宗
本尊 釈迦如来(釈迦牟尼仏)
山号 不詳(確認されていない)
創建 室町時代後期(15世紀末頃と推定)

戦国期の池田氏とともに歩んだ、明悟院創建の由緒

明悟院は、もともと摂津国池田(現在の大阪府池田市)にあった曹洞宗の古刹・塩増山 大広寺の塔頭として創建されました。 大広寺は応永2年(1395年)に天厳宗越禅師によって開かれ、文明年間(1469~1487年)には池田城主・池田充正(いけだみつまさ)の厚い帰依を受けて隆盛を極めました。 充正は大広寺の中興の祖とされ、伽藍の整備や寺領の拡大に尽力し、五月山には望海亭という修行場を建立するなど寺勢を大いに高めました。

この充正の時代、大広寺には36もの塔頭が存在したと伝わり、その代表的な三院が「泉福院」「明悟院」「陽春庵」でした。 すなわち明悟院は、戦国期の池田氏による大広寺再興の折に創建された塔頭の一つであり、池田一族の菩提寺ネットワークの要の一院でした。 大広寺とその塔頭群は池田氏の庇護のもと発展し、曹洞宗の禅寺として栄えましたが、戦国の動乱の中で数々の試練にも直面します。

天正3年(1575年)、池田氏当主・池田知正が織田信長に従軍して留守にしていた折、家臣の荒木村重が謀反を起こして池田城を占拠。 このとき大広寺は伊丹へと強制移転させられるという事件が起きました(後に池田知正によって慶長年間に旧地へ復興)。 このように本寺である大広寺が戦国から安土桃山時代にかけて波乱の歴史を歩んだことで、塔頭である明悟院もまたその影響を受けたと考えられます。 明悟院は、池田氏の信仰とともに興り、戦国の混乱の中でも法灯を絶やさずに受け継がれた禅の小院として、今日までその由緒を静かに伝えています。

  • 境内の伽藍

    明悟院の境内は豊中市岡上の町の住宅街に位置し、こぢんまりとした都市型の禅寺です。 正面には山門が構えられ、敷地内には法要や参拝の場となる本堂、住職が起居する庫裡(くり)などが整然と配置されています。 境内は広くはないものの、整備が行き届き、周囲の喧噪を忘れさせる静けさが漂います。 都市の中にありながら、訪れる人に安らぎを与える落ち着いた佇まいが印象的です。

  • 墓地と供養塔

    境内の裏手には墓地が併設され、多くの石塔が整然と並んでいます。 幹線道路に面しながらも、裏手は路地に囲まれた独特の配置で、地域に根ざした墓所空間を形成しています。 本堂脇から墓地へと通じる一角には、歴代住職や檀家の供養塔が立ち並び、静かに先祖を弔う場となっています。 こぢんまりとした寺域ゆえに、一歩境内に入ると周囲の喧噪を離れ、穏やかな時間が流れます。

  • 子守地蔵

    明悟院の門前近くには、地域の人々から厚い信仰を受ける「子守地蔵」が祀られています。 石造座像の地蔵菩薩で、子どもの守護や子育てに霊験があるとされ、赤ちゃんの健やかな成長を願って多くの人がお参りします。 毎年8月頃には地蔵盆(地蔵祭り)が行われ、地域の人々が手を合わせ供養する姿が見られます。 岡上の町1丁目の路傍に静かに佇むこの地蔵は、「岡町の地蔵さん」として親しまれています。

  • 文化的背景と伝承

    明悟院は、戦国時代に池田氏の菩提寺ネットワークの一院として誕生した歴史を持ちます。 明治期に現在地へ移転するまでの間に、創建当初の建造物や寺宝の多くは散逸しましたが、 大広寺ゆかりの寺としての法脈と誇りは今も受け継がれています。 本堂に安置された仏像や過去帳には、往時の面影が静かに宿っているといわれます。 また、地域の民間信仰の中では「岡町の地蔵さん」など、素朴ながらも人々の心に根付いた信仰が伝えられています。 こうした日常の信仰こそが、明悟院の持つ文化的遺産の真髄といえるでしょう。

明悟院のあゆみ

  • 室町時代(応永2年・1395年)

    大広寺の開山

    曹洞宗の古刹・塩増山大広寺が、天厳宗越禅師によって摂津国池田に開かれる。 のちに塔頭として明悟院の源流が生まれる礎となった。

  • 文明年間(1469~1487年)

    池田充正による中興と塔頭創設

    池田城主・池田充正の帰依を受け、大広寺の諸堂が再建され隆盛。 寺領の五月山には修行場「望海亭」が建立され、36もの塔頭が整備された。 「泉福院」「明悟院」「陽春庵」はその代表格として知られ、明悟院はこの時期に創設されたと伝えられる。

  • 天正3年(1575年)

    戦国の動乱と大広寺の移転

    池田知正が織田信長に従軍して留守の間、家臣・荒木村重が謀反を起こし池田城を占拠。 大広寺は一時的に伊丹へ強制移転させられるなど、塔頭群も動乱の影響を受ける。 のちに池田知正により慶長年間に旧地で復興を果たした。

  • 明治初期(1868~1877年)

    廃仏毀釈と塔頭の独立

    明治維新後の社寺改革により、大広寺とその塔頭にも変化が生じる。 塔頭のうち、泉福院は明治8年(1875年)に大阪市内へ移転、 陽春庵は「陽春寺」と改称して独立寺院となった。

  • 明治11年(1878年)

    明悟院の豊中移転

    明悟院は池田から現在の大阪府豊中市岡上の町へ移転。 旧能勢街道(能勢妙見山へ通じる街道筋)沿いに寺基を構え、 この移転をもって大広寺から独立した寺院として再出発した。 移転の背景には、檀信徒の移住や墓地需要の変化があったと考えられる。

  • 近代~現代

    豊中の地に根ざす禅寺として存続

    豊中市岡町界隈に伽藍を構え、地域に密着した寺院として今日まで存続。 現在も大広寺ゆかりの法脈を受け継ぎ、地域檀信徒の信仰の場として静かにその歴史を伝えている。

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