| 所在地 | 大阪府豊中市二葉町2-2-23 |
|---|---|
| 宗派 | 日蓮宗 |
| 山号 | 如説山(にょせつざん) |
| 創建 | 奈良時代頃(8世紀、伝・行基菩薩が開基) |
| 再興 | 慶安2年(1649年)日蓮宗の日芳上人により中興 |
| 本尊 | 鬼子母神(子安鬼子母神、自然石) |
新福寺(しんぷくじ)は、大阪府豊中市南部にある日蓮宗の寺院で、江戸時代に再興された小規模ながら歴史ある古刹です。 宗派である日蓮宗は、鎌倉時代の僧・日蓮を開祖とし、「南無妙法蓮華経」のお題目を唱えて法華経を信仰する教えを説きます。 新福寺もその法華経信仰を基盤に、本尊として安産・子育ての守護神である鬼子母神(きしもじん)を祀っています。 自然石の鬼子母神像は、江戸時代の再興時に祀られたもので、「子安鬼子母神」として今も地域の人々から信仰を集めています。
寺の起源は奈良時代にまで遡ると伝えられ、寺伝によれば、聖武天皇の勅願を受けて各地に寺院を建立した高僧・行基菩薩が当地に寺を開いたとされています。 しかし平安末期の保元・平治の乱(1156〜1160年)で兵火により焼失し、中世には一堂を残すのみとなって荒廃しました。 長い空白を経て江戸時代の慶安2年(1649年)、日蓮宗の僧・日芳上人が霊夢を受けて自然石の鬼子母神像を感得し、これを祀って寺を再興。 新福寺はここに再び法華の教えを掲げる寺院として生まれ変わり、江戸期を通じて地域の信仰を支えました。
江戸時代、新福寺は当地(旧・椋橋庄)を治めた旗本・大島家の菩提寺としての役割も担いました。 大島家は織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に仕えた武将・大島光義を祖とし、江戸期には豊中南部一帯を領有していました。 この大島家に仕えた代官の一人・萱野七郎左衛門重利の子、萱野三平重實は赤穂浪士ゆかりの人物として知られています。 元禄14年(1701年)に起きた赤穂事件の際、主君・浅野長矩に殉じることを望むも、父から止められた三平は苦悩の末、 元禄16年(1703年)に自刃し「四十八人目の赤穂義士」として後世に名を残しました。 その後、新福寺には萱野三平と父・兄・叔父ら一族の墓所が設けられ、今も静かにその供養が続けられています。
明治維新後の廃仏毀釈では幸い大きな被害を免れ、戦後の社会変革期には境内の一部を失いながらも寺院は存続。 昭和23年(1948年)の農地改革では土地の一部を収用され、昭和36年(1961年)には名神高速道路豊中インターチェンジの建設に伴い墓地の再整備が行われました。 それでも新福寺は檀信徒の支えによって法灯を守り続け、現代に至るまで地域信仰の場として受け継がれています。 規模は小さいながらも、長い歴史とともに人々の暮らしに寄り添い、今も静かに祈りの場として佇んでいます。
新福寺の境内は開放的で、誰でも自由に参拝することができます。 正面には木造瓦葺きのシンプルな山門が構えられ、門をくぐると静かな空気に包まれます。 境内はこぢんまりとしていますが、砂利敷きの広場や樹木が整えられ、 地域の人々が日常的に手を合わせに訪れる穏やかな雰囲気が漂います。
正面奥に建つ本堂は、新福寺のご本尊・鬼子母神(子安鬼子母神)を安置するお堂です。 現在の本堂は江戸時代以降に建てられ、平成期に修繕を重ねながら大切に維持されています。 鬼子母神は本来、インド由来の女神で、日蓮聖人によって改心させられ仏教の守護神となりました。 子どもの守護や安産の神として信仰され、新福寺では江戸期に再興された際に感得された自然石の鬼子母神像が祀られています。 現在でも安産祈願や子どもの健やかな成長を願う参拝者が訪れ、静かに祈りを捧げています。
本堂脇の墓地には、赤穂浪士ゆかりの萱野三平重實とその一族の墓所があります。 父・萱野重利、兄・萱野七之助重通、叔父・中村又兵衛重正の墓とともに並び、戒名が刻まれています。 とくに萱野三平の墓前には、自刃直前の辞世の句 「晴れゆくや 日ごろ心の 花曇り」と、戒名「妙法陽光洞廓居士」を刻んだ石碑が建てられています。 風化した文字の中に、三平の苦悩と覚悟が滲み出ており、往時の忠臣蔵の史実を静かに伝えています。 史跡指定はされていませんが、歴史愛好家が訪れる隠れた名所でもあります。
境内の一角に建つ小ぶりな入母屋造の鐘楼堂には、江戸時代以降の鋳造と推定される梵鐘が吊るされています。 大晦日には除夜の鐘が行われ、檀家や地域住民が集い、108つの鐘を撞いて一年の無事を祈ります。 普段は静かな境内もこの夜ばかりは鐘の音が響き、厳かで温かな年中行事として親しまれています。
新福寺の境内には、四季折々の自然が息づいています。 春には本堂横のしだれ桜が薄紅色の花を咲かせ、地域の人々が静かに花見を楽しみます。 椿や青葉、紅葉なども季節ごとに表情を変え、冬には澄んだ空気の中で寺の静けさが一層際立ちます。 規模は小さいながらも、身近に季節の移ろいを感じられる境内は、訪れる人々に癒しを与える場所です。
奈良時代(8世紀頃)
行基菩薩が当地に寺院(安養院とも)を開いたと伝えられる。 聖武天皇の勅願所の一つであったという伝承も残る、豊中でも屈指の古刹。
平安時代末期(1156~1160年)
保元・平治の乱の戦火により伽藍が焼失。 中世には小堂一宇を残すのみとなり、寺勢が衰微したと伝えられる。
江戸時代前期(1649年)
日蓮宗の僧・日芳上人が堂宇を再建し、自然石の鬼子母神像を安置。 これにより寺院を再興し、日蓮宗「如説山新福寺」として法灯を継承する。
江戸時代中期(17世紀後半~18世紀)
椋橋庄を治めた旗本・大島家の菩提寺となる。 大島家家臣の萱野重利・萱野三平父子ら一族の墓所が境内に築かれ、 元禄16年(1703年)に自刃した萱野三平の菩提を弔う墓が建立された。
明治維新後(1868年以降)
廃仏毀釈の時代にも廃寺を免れ、寺領と墓所を維持。 以降も豊中地域の檀信徒によって法灯が守られ、信仰活動が続けられた。
昭和23年(1948年)
戦後の農地改革により寺所有の農地が国に買収され、 境内地の一部を喪失。同時期に周辺の宅地化が進行した。
昭和36年(1961年)
名神高速道路建設による道路拡幅工事に伴い、 境内地の一部が再度収用される。墓地の区画変更や移設を実施し、再整備を行う。
昭和後期~平成(1980年代以降)
本堂屋根の修復や山門の改修などが行われ、寺観を維持。 地域住民や檀家による清掃・護持活動が続けられ、境内環境が整えられた。
令和時代(現在)
現在も豊中地域に根ざす古刹として法要や年中行事を継続。 令和5年(2023年)には「豊能日蓮宗青年会結成50周年記念法要」が当寺で執り行われた。 今もなお地域の信仰拠点として静かに法灯を守り続けている。