| 所在地 | 大阪府大阪市北区末広町1-7 |
|---|---|
| 宗派 | 日蓮宗(生師法縁) |
| 山号 | 讀誦山(どくじゅざん) |
| 本尊 |
十界曼荼羅(曼荼羅本尊) ※豊臣秀吉寄進の妙見大菩薩像を祀る |
| 創建 | 慶長9年(1604年) |
| 開山 | 増長院日秀上人 |
| 拝観 | 境内自由(堂内非公開)※一般参拝受入れなし |
| 文化財・史跡 | 大塩平八郎墓所(大阪市顕彰史跡) |
成正寺(じょうしょうじ)は、慶長9年(1604年)に増長院日秀上人が開創した日蓮宗寺院で、豊臣秀吉との和歌の縁により現在地に寺領を拝領したと伝えられます。秀吉は文禄元年(1592年)の朝鮮出兵の際、自身の持仏であった妙見大菩薩像を戦勝祈願として成正寺に寄進しており、現在も本堂に安置されています。寺号の「讀誦山」は法華経の読誦を重んじる日蓮宗の信仰にちなみ、成正寺は江戸初期から天満寺町の寺院群の一寺として地域の信仰を集めてきました。
江戸時代後期には、大阪町奉行所与力で陽明学者の大塩平八郎の菩提寺として特に知られるようになります。天保8年(1837年)、平八郎は「大塩平八郎の乱」を起こし民衆救済を訴えましたが、反乱は半日で鎮圧され、父子は自決。成正寺にはその墓所が祀られ、明治以降、門人や有志によって顕彰碑も建立され、現在でも多くの歴史愛好家が訪れる史跡となっています。
しかし成正寺は戦災を免れず、1945年(昭和20年)の大阪大空襲で伽藍は焼失し、大塩父子の墓碑も破壊されました。戦後、本堂は鉄筋コンクリート造で再建され、墓石も昭和32年(1957年)に遺族らの手により改めて建立されています。境内には焼失を免れた古い石碑や損傷痕を残す墓石が点在し、歴史の記憶を今に伝えています。
また成正寺は、未生流華道の二代家元・上田廣甫(うえだこうほ)の菩提寺としても知られます。廣甫は江戸末期に嵯峨御所の花務職を務め、法眼の位を授かった人物で、文久元年(1861年)に大坂で没しました。成正寺には廣甫の墓所があり、今日でも未生流家元や門人による供養が続けられています。このように成正寺は、武士の志から花道文化まで多彩な歴史を秘める寺院で、本尊妙見菩薩や墓所は非公開であるものの、その歴史的価値は高く評価されています。
成正寺の山門は大阪市街地の一角にひっそりと佇み、寺紋入りの幕が掛けられた門越しに境内の様子を垣間見ることができます。 門前には大阪市教育委員会が建てた「大塩平八郎墓所」の顕彰碑があり、当寺が平八郎ゆかりの史跡であることを示しています。 周囲はビルに囲まれていますが、門をくぐると石畳と植栽が整えられた落ち着いた空間が広がり、都心にありながら静かな佇まいを保つ隠れた史跡です。
本堂は昭和戦後に再建された鉄筋コンクリート造で、外観は質実ながら堂内には由緒ある本尊が安置されています。 創建時に豊臣秀吉が戦勝祈願として寄進したと伝わる妙見大菩薩像(北辰妙見尊星王)が祀られ、当寺の秘宝として大切に護持されています。 堂内は非公開ですが、歴史的価値は高く、本堂脇の寺務所は墓所参拝者が静かに手を合わせられるよう開放的な造りとなっています。
本堂向かって右手には、大塩平八郎と長男・格之助の墓所があります。乱後に一時廃されたものの、寺が密かに遺骨を保護し、 明治30年(1897年)に有志により「中齋大塩先生墓」(平八郎)が、続く大正5年(1916年)に「格之助君墓」が建立されました。 現在の墓碑は大阪大空襲で損壊したものを昭和32年(1957年)に復元したものです。 左に平八郎、右に格之助の墓碑が並び、花立や香炉が備えられています。墓前には今も花が絶えず、平八郎の座右の銘 「身の死するを恐れず ただ心の死するを恐るるなり」が後世へ静かに語り継がれています。
境内には、大塩平八郎の乱で命を落とした多くの人々を弔う慰霊碑が建てられています。 これは乱から150年後の昭和62年(1987年)、大塩事件研究会の有志や全国の崇敬者の浄財によって建立されたものです。 碑には戦死者・処刑者・火災犠牲者などの名が刻まれ、黒みがかった石碑は静かな威厳を放ちます。 命日に合わせた献花も行われ、歴史の悲劇を後世に伝える場として大切に守られています。
本堂裏手には大塩家一族の古い墓碑が集められており、平八郎の父・敬三や祖父・政之丞など先祖代々の墓が並びます。 一部の墓石には焼夷弾による損傷痕が残っており、戦災の凄絶さを今に伝えています。 この区域は静謐で、歴史の深みを感じられる当寺の重要な史跡の一つです。
境内には、未生流華道二代家元・上田廣甫(うえだこうほ)の墓所も祀られています。 廣甫は嵯峨御所の花務職を務め法眼の位を授かった花道家で、文久元年(1861年)に大坂で没しました。 現在でも未生流家元や門人によって墓前で手向けと手入れが行われ、静かに供養が続けられています。 大塩事件と華道という異なる歴史の層が同じ境内で息づく点も、成正寺の大きな魅力です。
1604年
(慶長9年)
豊臣秀吉の知遇を受け、寺領の拝領とともに秀吉の持仏であった妙見大菩薩像が寄進される。 天満寺町形成期の古刹として歴史を歩み始める。
1837年
(天保8年)
大阪で大塩平八郎が武装蜂起するも鎮圧。平八郎と養子格之助は自害し、 成正寺に密かに埋葬される。後に菩提寺として知られるようになる。
1897年
(明治30年)
有志により平八郎の顕彰碑が建立され、成正寺が大塩平八郎ゆかりの寺として広く認知される契機となる。
1916年
(大正5年)
平八郎の長男・格之助の墓碑が建立され、父子の供養塔がそろう。 大塩家の菩提を弔う場として整えられた。
1945年
(昭和20年)
本堂ほか寺域が全焼し、大塩平八郎父子の墓石も倒壊・破損する甚大な被害を受ける。 戦後の復興が急がれることとなった。
1957年
(昭和32年)
遺族や関係者の手により墓碑が復元され、戦災からの復興が進む。 本堂もこの頃までに鉄筋コンクリート造で再建される。
1976年
(昭和51年)
大塩平八郎の遺徳を顕彰し、研究を深めるための組織が結成。 講演会や史跡見学などが継続的に実施されるようになる。
1979年
(昭和54年)
「大阪市顕彰史跡第101号」に指定され、山門前に顕彰碑が建てられる。 史跡としての重要性が公的に認められた節目となる。
1987年
(昭和62年)
乱から150年の節目に、大塩事件研究会と崇敬者の浄財により慰霊碑を建立。 殉難者の冥福を祈る場として、命日には献花が続けられている。