所在地 | 大阪府豊中市東豊中町1丁目9-1 |
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電話 | 06-6858-0174 |
宗派 | 浄土真宗本願寺派(西本願寺) |
廣教寺(こうきょうじ)は、大阪府豊中市東豊中町にある浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺院で、山号を「祝松山(しゅくしょうざん)」と称する。 その起源は中世、摂津国東成郡高津村(現・大阪市中央区付近)に天台宗の寺院「願慶寺」として創建されたことに始まる。 戦国時代の混乱で荒廃したが、慶長11年(1606年)に本願寺第三世覚如上人の玄孫・善宗が入寺し、浄土真宗本願寺派として再興。善宗が中興の祖(第9世住職)とされる。
寛永2年(1625年)頃、徳川幕府の施策により高津の旧寺領が没収されるが、代地として与えられた大阪市西区立売堀付近(旧西成郡薩摩堀北之町)へ移転。 第11世善融がこの地を開拓して「薩摩堀寺内町」を形成し、廣教寺は「薩摩堀御堂」あるいは「願慶寺堀」とも呼ばれるようになった。 寛永11年(1634年)、朝廷より「祝松殿」の称号を賜り、寺号を「廣教寺」と改称。旧寺号「願慶」の二字は現在も本堂名「願慶堂」として継承されている。
江戸時代には大坂屈指の大寺院として栄え、『摂津名所図会』にも「市中にありながら山林の趣を有す」と記されるほど広大な伽藍と名園を備えた。 書院の庭には古梅や老柳、大樹の桜が茂り、風雅な景観を呈していた。幕末期には外国使節の宿泊地としても使用され、初代英国公使ラザフォード・オールコックが『大君の都』で宿泊記を残している。
明治期以降も大阪市内で寺勢を保ったが、昭和20年(1945年)3月14日の大阪大空襲で本堂・伽藍を焼失し、多くの寺宝を失った。 戦後は寺地が約130坪に縮小し存続が危ぶまれるが、本願寺第23世勝如上人の意向により、昭道連枝の次男・照英師が第20世住職として迎えられ、再興が進む。 昭和36年(1961年)、戦災復興区画整理事業に伴い豊中市東豊中町へ移転。昭和51年(1976年)には新本堂「願慶堂」を再建し、昭和末期から平成期にかけて伽藍整備が進められた。
平成元年(1989年)に納骨堂「無量寿堂」を新設、平成13年(2001年)には祖師堂(御影堂)を兼ねた多目的ホールを建立。 今日の廣教寺は、戦火と移転を乗り越えて法灯を守り続けるとともに、豊中の地で浄土真宗の教えを広める道場として、地域の信仰と文化の中心となっている。
廣教寺には、長い歴史を物語る貴重な寺宝が伝わる。 本尊の阿弥陀如来坐像(木造漆箔・一木造)は、寺伝では聖徳太子作とされ、かつて青蓮院門跡・尊純法親王が念持仏としていたと伝えられる。 制作年代は平安後期と推定され、豊中市内でも屈指の古仏である。 また、親鸞聖人を写した見真大師座像や、蓮如上人の自筆による六字名号「南無阿弥陀仏」も寺宝として所蔵。 いずれも戦火を免れて伝わった文化財で、浄土真宗の信仰を今に伝える貴重な遺産となっている。
廣教寺の梵鐘は江戸時代・天明6年(1786年)鋳造の青銅製古鐘で、旧大阪・薩摩堀の廣教寺時代から伝わるもの。 豊中移転後も大切に保存され、現在は豊中市指定有形文化財(美術工芸品)に登録されている。 高さ・口径ともに堂々たる姿で、大晦日には除夜の鐘として撞かれ、その深く響く音色が寺の歴史を今に伝えている。
現在の廣教寺は住宅街の一角にあり、正面入口には「祝松山廣教寺」と刻まれた石柱(寺号標)が立つ。 伝統的な楼門はないが、門前から境内へと続く静寂な空間には落ち着いた風情が漂う。 かつての大伽藍を偲ばせる気品ある佇まいが今も残されている。
本堂は「願慶堂」と称し、旧寺号「願慶寺」に由来する。 現在の堂宇は鉄筋コンクリート造で、昭和51年(1976年)に再建された。 内部は椅子席を備えた広間で、阿弥陀如来像を安置。入口の「願慶堂」扁額は、本徳寺昭道連枝による揮毫で、新本堂建立時に贈られたものである。 伝統と近代建築が調和する空間は、往時の歴史を受け継ぐ象徴となっている。
本堂に隣接する祖師堂(御影堂)は、平成13年(2001年)建立の木造平屋建て。 親鸞聖人の御影像を安置し、法要や集会に使用できる多目的ホールを兼ねている。 現代的な設備を備えつつも厳かな雰囲気を保ち、地域の行事や法事の場として幅広く活用されている。
再建後に建立された鐘楼堂には、前述の江戸期鋳造の梵鐘が吊るされている。 白壁と瓦屋根の調和が美しく、境内の象徴的存在となっている。 大晦日には除夜の鐘が撞かれ、多くの参拝者が訪れて新年を迎える恒例行事として親しまれている。
本堂裏手には昭和後期から平成にかけて整備された寺内墓地が広がる。 歴代住職の墓所や無縁仏供養塔があり、昭和元年(1989年)に建立された納骨堂「無量寿堂」も併設。 地域檀信徒の葬送・供養の場として機能し、外来者も境内から静かに墓域を望むことができる。 戦後復興から現代に至るまで、信仰と祈りを受け継ぐ空間として守られている。
創建不詳(中世)
摂津国高津(現・大阪市中央区付近)に天台宗寺院「願慶寺」として建立されたのが起源とされる。
1606年(慶長11年)
荒廃していた願慶寺を本願寺僧・善宗が再興し、浄土真宗本願寺派の寺院となる。善宗が中興開山(第9世住職)とされる。
1625年(寛永2年)
大坂城下の寺領を失い、西成郡薩摩堀北之町(現・大阪市西区立売堀)に代地を拝領。第11世善融が同地を開拓し、寺内町「薩摩堀御堂町」を形成する。
1634年(寛永11年)
朝廷より「祝松殿」の号を賜り、寺号を「廣教寺」と改める(山号:祝松山)。以後、本堂を「願慶堂」と称し、旧寺号の名を受け継ぐ。
江戸時代
大坂・薩摩堀で大伽藍を構え繁栄。「廣教」の名が地域に残る。幕末には英国公使ラザフォード・オールコックが宿泊した記録が残る。
1945年(昭和20年)
3月14日の大阪大空襲で堂宇が全焼。寺域が大幅に縮小し、多くの寺宝を失う。
1961年(昭和36年)
大阪市から豊中市東豊中町へ寺基を移転。第20世照英が住職として入寺し、戦後復興の新たな歩みを始める。
1976年(昭和51年)
豊中の新境内に鉄筋コンクリート造の本堂「願慶堂」を再建。旧寺号を受け継ぎ、寺の象徴として建立された。
1989年(平成元年)
墓地内に納骨堂「無量寿堂」を新設し、檀信徒の供養と地域信仰の拠点として整備を進める。
2001年(平成13年)
祖師堂(御影堂兼多目的ホール)を建立。親鸞聖人像を安置し、法要や地域行事の会場として利用されている。