所在地 | 大阪府箕面市箕面8-1-3 |
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山号 | 松雲峰 |
宗派 | 臨済宗妙心寺派 |
本尊 | 釈迦如来(脇侍に文殊菩薩・普賢菩薩) |
創建 | 寛永11年(1634年)頃 |
開山 | 瑞南卜兆禅師(初代住職) |
開基 | 石川忠総(初代膳所藩主) |
札所等 | 北大阪七福神(毘沙門天) |
文化財 | 木造兜跋毘沙門天立像(平安時代、中世期作、国指定重要文化財) |
HP | minoh-kanzanji.com |
寒山寺は元々、滋賀県大津市(旧近江国膳所)で膳所藩主の石川忠総が高僧瑞南卜兆禅師を招いて開いた寺院です 。琵琶湖畔・石山膳所の紅葉景勝が中国・蘇州の寒山寺になぞらえられ、唐代詩人・張継の漢詩「楓橋夜泊」の名所にちなんで「寒山寺」と命名されました 。その後まもなく藩主石川家の国替えに伴い、大阪城下の西寺町(現在の大阪市北区兎我野町付近)に移転。寺地は豊臣秀吉の側室・淀殿ゆかりの菜種御殿跡だったと伝えられています 。江戸時代には寒山寺の梵鐘(つり鐘)が時報の鐘として広く知られ、近松門左衛門の浄瑠璃『曽根崎心中』でも「寒山寺の鐘」として劇中に登場するほど有名でした 。しかし天保8年(1837年)の大塩平八郎の乱による大火では堂宇を焼失し、その後再建されます 。第二次世界大戦中には寺自慢の鐘が金属供出で失われ、大阪大空襲で本堂も再び焼失するなど幾度も苦難に見舞われました 。戦後、大阪万博(1970年)の都市計画で新御堂筋建設予定地に旧寺地がかかり、昭和43年(1968年)頃に現在の箕面市へと移転再興されました 。以降は檀信徒の協力で本堂や書院を整備し、現在は箕面の地で地域に開かれた静かな禅寺として歩みを続けています。
寒山寺の境内は近年整備が進み、参道や建物周辺はバリアフリー対応の石畳になっています 。山門は現代的な意匠の門構えで、入口には箕面市の保護樹木に指定された大きなクスノキが茂り、訪れる人を出迎えてくれます 。移転後に建立された本堂は約200名を収容可能な広さがあり冷暖房も完備されているため、法要や坐禅会などで快適に利用できます 。本堂内陣からは、庭園の枯山水と苔庭を一望できるよう設計されています。 庭園にはソメイヨシノの桜をはじめ四季折々の草木が配されており、春には桜花、夏には新緑、秋には紅葉、冬には苔の緑が美しいコントラストを見せます 。平成30年(2018年)に庭園の改修整備も行われ、石組みや飛び石が趣ある景観を演出しています 。境内には茶室や書院などの建物も配置されています。自然に囲まれた茶室では静寂の中でお茶を楽しめます(※現在修復中) 。また旧書院は大正時代に建てられた和風建築で、欄間やガラス戸に当時の風情を残しています 。現在は法事の控室や檀家の集まりに利用されていますが、その古建築の趣は建築好きな訪問者にも興味深いでしょう。その他、本堂地下には檀信徒の位牌を祀る位牌堂や、新たに整備された永代供養墓「万霊塔」、ペット供養塔「浄光塔」などもあり、現代のニーズに応じた施設も備えています 。静かな境内と手入れの行き届いた庭園、そして歴史を感じさせる建造物が調和し、訪れる人々に安らぎを与えてくれるでしょう 。
1634年頃
(寛永11年)
膳所藩主・石川忠総が瑞南卜兆禅師を開山に迎え、近江国膳所(現・滋賀県大津市石山町付近)に寒山寺を創建。琵琶湖と紅葉の景勝地に位置し、中国蘇州の寒山寺になぞらえて寺名が定められた。
1650年
(慶安3年)
石川家の転封により寺も大坂城下の西寺町(大阪市北区兎我野町)へ移転。以後、大坂の町で禅の道場として布教を開始。寒山寺の梵鐘は時報の鐘として知られ、近松門左衛門の浄瑠璃『曽根崎心中』にも登場するほど名声を得た。
1837年
(天保8年)
大塩平八郎の乱による大火で大阪市内の寒山寺は本堂以下諸堂を焼失。当時伝わっていた開山像や禅画などは疎開によって難を逃れ、その後歴代住職により堂宇が再建された。
1944–1945年
(第二次世界大戦中)
戦時下で寒山寺の名鐘は金属供出され失われ、さらに大阪大空襲により本堂が焼失する壊滅的被害を受ける。戦後は再び復興に尽力した。
1968年
(昭和43年)
大阪万博に伴う新御堂筋建設計画により旧寺地が立ち退き対象となり、大阪市からの要請で箕面市への移転を決定。第15世・第16世住職のもと、本堂・書院などを新築し、1969年(昭和44年)までに移転完了。
昭和~平成期
(~2000年代)
箕面市への移転後、境内整備やバリアフリー化、永代供養施設の新設など現代的設備を充実。平成30年(2018年)には庭園改修も実施し、移転から半世紀を経た現在も法要・坐禅会などを通じて地域に根ざした禅寺として活動を続けている。