| 寺院名 | 普光山安養寺 |
|---|---|
| 所在地 | 大阪府大阪市西淀川区大和田5丁目20-15 |
| 山号 | 普光山 |
| 宗派 | 浄土真宗本願寺派(西本願寺) |
| 本尊 | 阿弥陀如来(寺伝では行基作) |
| 創建 | 神亀元年(724年、寺伝)/慶長年間(1600年前後・中興) |
| 開基 | 行基菩薩(寺伝)/准如上人(中興) |
安養寺は、奈良時代の神亀元年(724年)に聖武天皇の勅願により行基菩薩が創建したと伝えられる古刹です。本尊の阿弥陀如来立像も行基作とする寺伝が残されています。創建当初は「普光山法界教寺」と号し、天台宗に属する寺院でしたが、中世に浄土信仰が広まる中で念仏道場が開かれ、15世紀末頃には当地に念仏堂が建立されていたと伝えられています。
戦国時代には、石山本願寺と織田信長が争った石山合戦(1570~1580年)の兵火により、伽藍は焼失しました。現在も境内には当時の柱石や礎石が残されており、戦乱以前の歴史を今に伝える貴重な遺構となっています。その後、石山合戦後に本願寺第十二世准如上人の時代に浄土真宗へと改宗し、寺号を安養寺、山号を普光山と改めて西本願寺派に属する寺院として再興されました。
江戸時代以降は、地域に根差した浄土真宗信仰の拠点として歩みを重ね、観音堂に安置された観音菩薩・地蔵菩薩の尊像も代々大切に護持されてきました。明治以降も信徒によって維持されましたが、昭和戦後の都市開発に伴い、大阪市西淀川区大和田から兵庫県尼崎市東園田町へ移転し、新たな本堂と施設を整備しました。長い歴史を持つ古刹として、現在も法要や行事、納骨堂の運営などを通じ、信仰と地域コミュニティの双方に貢献しています。
安養寺の山門は、寄棟造の落ち着いた佇まいを見せる木造門です。朝から夕方まで開放され、地域の人々や参拝者が気軽に境内に足を踏み入れられるよう配慮されています。現在の山門は比較的新しい建造物ながら、素朴で渋い趣があり、往時の寺院建築の雰囲気を感じさせます。門をくぐると整えられた境内が広がり、正面には本堂が堂々と構えています。
境内正面に建つ本堂は、浄土真宗寺院らしい伝統様式の堂宇です。瓦葺き屋根の下、内部は阿弥陀如来をご本尊とする荘厳な礼拝空間となっており、須弥壇中央には寺伝で行基作とされる阿弥陀如来立像が安置されています。堂内には観音菩薩・地蔵菩薩の尊像も祀られ、創建以来の歴史と信仰を今に伝えています。法要の際には多くの参詣者が集い、堂内は厳かな雰囲気に包まれます。
境内には小ぶりながら趣のある鐘楼堂があり、年末には除夜の鐘を撞く行事が行われます。戦後に新調された梵鐘は、毎年大晦日の夜に一般参拝者にも開放され、静かな住宅地に新年を告げる音を響かせます。鐘楼脇には由緒を記した案内板も設置され、安養寺が地域にもたらしてきた歴史と信仰の厚みを感じ取ることができます。
724年
(神亀元年)
聖武天皇の勅願により、行基菩薩が当地に寺院「普光山法界教寺」を創建したと伝えられています。本尊の阿弥陀如来像も行基作とされ、以後は天台宗寺院として信仰を集めました。
15世紀末頃
(室町時代後期)
この頃までに、当地で浄土真宗の念仏道場が開かれたと伝えられています。後の安養寺につながる教団拠点が形成され、地域に念仏信仰が広まりました。
1570~1580年
(元亀元年~天正8年)
石山本願寺と織田信長の間で石山合戦が勃発し、安養寺(当時の法界教寺)も天正年間に兵火を受けて堂宇を焼失しました。観音堂の仏像など一部の寺宝のみが難を逃れ、柱礎石が現在まで残されています。
1590年代
(文禄~慶長期)
本願寺第十二世准如上人のもとで浄土真宗に改宗し、寺号を「安養寺」と改めて再興されました。以後は西本願寺(本願寺派)に属し、地域門徒の道場として歩み始めます。
江戸時代
本堂の再建や寺宝の維持が行われ、大和田村周辺の浄土真宗信徒の拠り所となりました。年中行事や寺子屋的な活動も営まれ、地域に深く根差した寺院として存続しました。
1945年
(昭和20年)
大阪大空襲により西淀川区一帯が被災しました。安養寺の被害状況は詳らかではありませんが、戦後の都市計画の変化により、寺運の維持や境内地確保が課題となりました。
2000年代
(平成期)
寺基を大阪市から兵庫県尼崎市東園田町の現在地へ移転し、新本堂や会館、納骨堂などを整備しました。都市型寺院として再スタートし、年中行事に加えてコンサート開催など地域交流の場としても活動を展開しています。