| 所在地 | 大阪府大阪市北区東天満1丁目8-26 |
|---|---|
| 宗派 | 浄土真宗 真宗大谷派(東本願寺) |
| 創建 | 慶長6年(1601年) |
| 開基 | 教如上人(浄土真宗東本願寺 初代門主) |
| 本尊 | 阿弥陀如来 |
| 電話 | 06-6351-3535 |
天満別院(てんまべついん)は、大阪市北区天満に位置する真宗大谷派(東本願寺)の別院であり、その歴史は本願寺の動向と深く結びついています。1580年、石山本願寺が講和によって大坂を退去した後、本願寺勢力は各地を転々としたのち、1585年(天正13年)に大坂・天満川崎へ戻され「天満本願寺(川崎本願寺/中島本願寺)」が建立されました。寺内町も形成され、大坂城下の発展に寄与したとされます。しかし1591年(天正19年)、豊臣秀吉の命により本願寺は京都へ移転することとなり、天満本願寺はわずか七年でその歴史に幕を下ろしました。
その旧地に1601年(慶長6年)、東西分立直後の東本願寺派を率いた教如上人が新たな寺院を創建したことが、現在の天満別院の始まりです。当初は「天満御坊」と称され、創建の実務には教如の信頼が厚かった仏照寺祐恵が尽力し、初代留守居役(住職)を務めました。以後その子孫が十一代にわたり住職職を継ぎ、地域では「仏照寺さん」として深く親しまれてきました。天満別院が大阪に根付いた背景には、石山本願寺からの伝統を守り継いだ僧侶・門徒たちの厚い信仰がありました。
天満別院は、大阪における浄土真宗教団の歴史と強く関わる寺院です。15世紀後半、本願寺第8世蓮如上人が大坂石山に布教の拠点を築いて以来、この地は真宗発展の中核として重要な役割を果たしてきました。天満別院はその歴史を受け継ぐ存在であり、境内には「大坂天満本願寺跡」と刻まれた石碑も残されています。本尊は阿弥陀如来で、親鸞聖人や蓮如上人の御影像も安置されています。
明治43年(1910年)には親鸞聖人650回遠忌を記念して、本願寺第22世現如上人が揮毫した「六字城(ろくじじょう)」の扁額が本堂に掲げられました。「六字城」とは南無阿弥陀仏の六字を象徴し、戦国期に石山本願寺が「六字の城」と呼ばれ難攻不落とされた故事に由来するものです。こうした寺宝は、天満別院が石山本願寺以来の真宗寺院の気風を今に伝える存在であることを示しています。
現在の天満別院は大阪天満宮の東、JR大阪天満宮駅から徒歩5分ほどの都心にありますが、境内に入れば静寂に包まれ、一般参拝も可能な落ち着いた空間が保たれています。門前町として栄えた天満の歴史とともに歩んできたこの別院は、地域門徒の信仰の場であると同時に、大阪の歴史散策においても石山本願寺・天満本願寺の流れを知る上で欠かせない史跡的存在です。
天満別院の境内は、かつて豊臣期に天満本願寺が建立されていた由緒ある場所に位置します。慶長13年(1608年)に現在地へ移転して以来、江戸・明治・戦後と幾度もの災害や都市開発を経ながら、真宗大谷派の大阪の拠点として再興を繰り返してきました。
江戸中期には親鸞聖人と蓮如上人の御影が下付され、壮麗な本堂が整えられましたが、貞享の大火・天保の大火・安政大地震などの災害で度々焼失・倒壊。たび重なる再建が必要となり、寺院の歴史において大きな転換点となりました。
廃仏毀釈の影響を受けつつも当別院は存続。江戸時代の山門は伏見城の遺構を移築したものと伝わり、明治期に富田林・興正寺別院へ再移築されたといわれています(現在は重要文化財)。建築の一部が他地に残る、稀有な寺院史を物語ります。
大阪大空襲により堂宇を全焼後、境内地は都市計画で南北に分断。北側は墓地として整備され、南側の一部は読売テレビ大阪本社用地として貸与されました。1959年には残された東側敷地に木造モルタルの本堂と輪番所が再建され、戦後復興の象徴となりました。
2000年(平成12年)に鉄骨鉄筋コンクリート造の新本堂が落慶。伝統と現代性を融合した意匠で、特に銅板葺きの丸屋根が個性的なシルエットを描きます。室内は冷暖房完備の近代的空間で御本尊阿弥陀如来や御影が安置されています。
天満別院には現如上人揮毫の「六字城」(1910年)をはじめ、江戸期下付の御影などの寺宝が伝わっています。境内には本堂のほか、寺務所・庫裏・門徒会館が整備され、法要・研修・集会の場として機能しています。
北側の墓地は門徒の納骨堂的役割を果たし、朝夕には参拝者の姿が見られます。境内は終日開放され、一般参拝も可能。毎月の法座や報恩講などの年中行事には多くの人が訪れ、都会の真ん中で浄土真宗信仰が脈々と受け継がれています。
1496年
(明応5年)
蓮如上人が摂津国大坂(石山)に本願寺別院(石山本願寺)を開創。以後、大坂は浄土真宗布教の中核拠点となる。
1580年
(天正8年)
石山合戦が和睦により終結。顕如上人は石山本願寺を明け渡し、紀伊・和泉へ退去する。
1585年
(天正13年)
豊臣秀吉の招きにより顕如上人が大坂・天満へ戻り「天満本願寺(川崎本願寺)」を建立。周囲に寺内町が形成され大坂城下の発展に寄与する。
1591年
(天正19年)
秀吉の命により顕如上人が京都六条堀川へ移転(現・西本願寺)。天満の旧寺地はのちに撤去・更地化される。
1601年
(慶長6年)
東本願寺初代門主・教如上人が旧天満本願寺跡に「天満御坊」を創建。天満別院の起源となる。初代住職には仏照寺祐恵が就任。
1608年
(慶長13年)
現在地(大阪市北区東天満1丁目)へ寺基を移し、この地が恒久的な境内となる。
1685年
(貞享2年)
本山より親鸞聖人御影と蓮如上人御影が下付され、本堂に奉安される。
1724年
(享保9年)
大坂市中の大火により天満別院も類焼し、堂宇を焼失する。
1758年
(宝暦8年)
江戸中期に本堂を再建。七間規模の壮麗な真宗寺院本堂が建立されたと記録される。
1835年
(天保6年)
住職の世襲制から輪番制へ移行。本山から派遣された僧侶が交替で住持する体制となる。
1837年
(天保8年)
大坂市街の火災で天満別院も被災し、伽藍の大半が焼失する。
1855年
(安政2年)
再建されていた本堂が安政大地震で倒壊。復旧工事に際し、興正寺の門を譲り受け山門としたとの伝承も残る。
1887年
(明治20年)
旧住職家(茨木・仏照寺家)の没落により、本山直属の別院として体制が再整備される。
1910年
(明治43年)
親鸞聖人650回忌に際し、第22世現如上人筆の「六字城」額が本堂に掲げられる。
1922年
(大正11年)
木造入母屋造の近代的意匠を取り入れた本堂へ改築される。
1945年
(昭和20年)
大空襲により本堂以下伽藍を悉く焼失。戦後、境内は都市計画により縮小・分断される。
1959年
(昭和34年)
境内東側に木造モルタルの本堂・輪番所を再建。西側は読売テレビ社屋として利用される。
1990年
(平成2年)
読売テレビの移転を機に、新本堂建設計画が本格的に進行する。
2000年
(平成12年)
鉄骨鉄筋コンクリート造・銅板葺ドーム屋根の現本堂が落慶。蓮如上人500回忌法要が厳修され、現代の天満別院の姿が確立される。