| 所在地 | 大阪府大阪市北区太融寺町6-12 |
|---|---|
| 宗派 | 日蓮本宗(法華宗系) |
| 山号 | 顕本山(一乗院) |
| 本尊 | 十界曼荼羅(十界勧請輪円具足の大曼荼羅) |
圓頓寺(えんとんじ)は、大阪市北区太融寺町に所在する日蓮本宗の寺院で、もとは天台宗の寺院として 西成郡木寺村(現・大阪市淀川区木川)にあったと伝えられます。鎌倉時代、日蓮聖人が天王寺へ向かう途中に 草鞋の紐を解いたという伝承が残り、当地は“日蓮聖人ゆかりの旧跡”として後世に重んじられてきました。 江戸時代中期の元文3年(1738年)、中津川(新淀川)の洪水被害などの事情を受け、この旧跡を再興するために 現在地である大坂北野村(太融寺町付近)へ移転・建立されました。明和元年(1764年)には京都要法寺の末寺となり、 以降は日蓮宗系寺院として歩みを続けています。
寺号の「圓頓」は仏教の教義用語に由来し、山号は「顕本山」。境内一帯はかつて北野村の湿地帯に位置し、 萩の名所として「北野の萩の寺」と親しまれ、秋には多くの文人や風流客が訪れる景勝地でもありました。 現在は梅田繁華街のすぐそば、高野山真言宗の古刹・太融寺の西隣にひっそりと佇み、周囲をビルに囲まれながらも 往時の由緒と静謐な寺院風景を静かに伝え続けています。
現在の本堂は昭和後期に再建された近代的な造りで、道路に面した門構えが特徴的なデザインを見せています。 境内はこぢんまりとしながらも植栽や石碑が整えられ、秋には萩の花が咲き、かつて「北野の萩の寺」と呼ばれた往時の面影をわずかに残しています。 本尊は曼荼羅御本尊で、堂内には日蓮大聖人像や一塔両尊(釈迦如来・多宝如来)像などが安置されていますが、内部は非公開です。
圓頓寺は上方落語「鷺とり」の舞台としても知られています。作中では「北野の萩の円頓寺」と呼ばれ、 大きな池を持つ寺として描かれています。酔っ払った主人公が池で眠る鷺を捕まえようとした結果、 鷺に飛び立たれ天王寺の五重塔まで運ばれてしまうという滑稽話の背景となりました。 現在の境内に池はありませんが、落語ゆかりの寺として密かに親しまれています。
圓頓寺は通常非公開で、堂内および境内の自由拝観はできません(墓地参拝や寺行事の際を除く)。 門外から静かに佇む寺観を眺めることはでき、都会の喧騒の中に残る「歴史の深み」を感じられるスポットとして散策者に知られています。
13世紀
(鎌倉時代)
日蓮聖人が当地(木寺村付近)を訪れ草鞋を脱いで休息したと伝えられる。 この伝承地がのちに圓頓寺のルーツとして重んじられるようになる。
1738年
(元文3年)
中津川の洪水被害などを背景に、日蓮旧跡復興のため北野村太融寺町周辺へ移転建立。 初期には「松景山圓頓寺」と称したという伝承もある。
1764年
(明和元年)
要法寺末寺となり、興門派(日蓮本宗)の寺院として寺運を維持。 以後、当地の法華信仰を支える寺院として定着する。
1868年
(明治元年)
神仏分離令や廃仏毀釈の影響を受けつつも寺院として存続。 都市化が進む中で周辺環境が大きく変わっていく時代を迎える。
1945年
(昭和20年)
太平洋戦争末期の大阪空襲で周辺地域は被災したが、圓頓寺は戦火を免れたと伝わる。 戦後の都市計画により周囲はオフィス街・繁華街へと変貌していった。
1980年前後
(昭和後期)
老朽化した堂宇の改築が行われ、現在の近代的意匠の本堂と山門が完成。 都市空間に馴染みながらも信仰の場としての存在感を保つ寺観が整う。
現在
(令和時代)
太融寺町のビル街に佇み、日蓮聖人ゆかりの寺として檀信徒に支えられる。 「北野の萩の寺」「落語ゆかりの寺」としても知られ、歴史を静かに伝えている。