| 所在地 | 大阪府大阪市北区兎我野町7-8 |
|---|---|
| 宗派 | 曹洞宗 |
| 山号 | 補陀落山(ふだらくさん) |
| 本尊 | 如意輪観音菩薩 |
| 創建 | 元和2年(1616年)〔開山:天徳寺開山・龍室秀雲大和尚〕 |
| 電話 | 06-6311-7022 |
圓通院(えんつういん)は、大阪市北区・兎我野町に静かに佇む曹洞宗の寺院で、山号を「補陀落山」と称し、 本尊に如意輪観音菩薩を祀っています。創建は江戸時代初期の元和2年(1616年)、同区内にある天徳寺開山・ 龍室秀雲大和尚による開創と伝えられ、古くから観音霊場として信仰を集めてきました。 寺名の「圓通」は観音菩薩の徳にちなむもので、明治維新後は大阪三十三ヶ所観音巡礼の第3番札所となり、 もとは露天神社(旧・神明宮)に安置されていた観音像が神仏分離を契機に当院へ遷座され、札所を継承しています。
圓通院は江戸期を通じて天満寺町の一角として地域に根づきましたが、災禍にも幾度となく見舞われました。 天保5年(1834年)の堂島新地の大火では伽藍を焼失し、檀信徒の力で再建されましたが、 明治末期にも再建が行われ、さらに昭和20年(1945年)の大阪大空襲で再び堂宇が全焼するなど、 何度も過酷な歴史を経験してきました。戦後は旧来の伽藍が再建されないままとなり、 現在は鉄筋コンクリート造の建物が境内に建ち、主に墓地管理を中心とした運営が続けられています。
一般参拝は原則できませんが、巡礼者のために門前から本尊・如意輪観音に手を合わせることは可能で、 必要に応じインターホンで住職に連絡を取ることもできるようです。繁華街の一角にありながら、 静謐な信仰の場として大切に守られてきた圓通院は、大阪三十三観音の札所を担う寺院として、 今日もひっそりとその法灯をつないでいます。
圓通院の墓地(寺の門前道路を挟んだ向かい側)には、赤穂事件で知られる大石家ゆかりの人物の供養塔があります。 四十七士筆頭・大石内蔵助良雄の実父である大石良昭(権内)、そして浪士の一人・大石瀬左衛門信清の実父にあたる 大石八郎兵衛信澄の墓が祀られています。良昭は延宝元年(1673年)に大坂藩邸で没し、当院に葬られた人物で、 その墓所は大阪市指定史跡となっています。案内板も整備されており、外からでも供養碑を確認できるため、 忠臣蔵ゆかりの史跡として歴史ファンに人気のスポットです。
本尊の如意輪観音菩薩坐像は六臂の観音で、如意宝珠によって人々の願いを叶える慈悲の仏として信仰されています。 圓通院は大阪三十三ヶ所観音巡礼の第3番札所に指定されており、明治維新期の神仏分離の際、 元は露天神社(旧神明宮)にあった観音像が当院へ遷座されたと伝わります。堂内は非公開ですが、 巡礼者は門前から本尊に手を合わせる形で参拝し、御朱印は書き置き対応が行われることもあります(要確認)。
現在の圓通院は戦後に整備された鉄筋コンクリート造の堂宇と山門をもち、伝統的寺院建築とは異なる近代的な外観です。 山門は鉄柵とコンクリート塀に囲まれ、通常は固く閉ざされており、特別行事を除いて内部参拝はできません。 しかし兎我野町周辺は江戸時代からの「寺町」で、妙香院・龍興寺などの寺院が通り沿いに点在し、 現代のビル群と歴史寺院が混在する独特の景観を形成しています。圓通院もその一つとして、 門前から往時の雰囲気を静かに感じ取ることができます。
1616年
(元和2年)
天徳寺開山・龍室秀雲大和尚により兎我野町の地に創建。 補陀落山圓通院として曹洞宗の信仰基盤が築かれる。
1834年
(天保5年)
天満一帯を襲った大火により堂宇が焼失。 その後、檀信徒の協力によって本堂をはじめとした伽藍が再建される。
1905年
(明治38年)
明治期の改修として本堂や庫裏、玄関が再建され、近代の寺観が整備される。 明治後期の建築様式を色濃く残す重要な改築期となった。
1945年
(昭和20年)
第二次世界大戦末期の空襲により伽藍が全焼。 長らく廃寺同然の状態となり、以後は墓地管理を中心とする運営形態へ移行する。
現代
境内整備や改修を経て現在に至る。 一般参拝は休止されているが、大阪三十三観音霊場第3番札所として静かに信仰を集め続けている。