所在地 | 大阪府吹田市山田東3丁目14-27 |
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宗派 | 高野山真言宗(本山:高野山金剛峯寺) |
山号 | 圓満山(えんまんざん) |
本尊 | 千手観世音菩薩(秘仏) |
創建 | 仁寿3年(853年)〈文徳天皇の勅願による開創〉 |
開山 | 慈覚大師 円仁(じかくたいし えんにん) |
開基 | 文徳天皇 |
文化財 |
大阪府指定有形文化財:木造准胝観音立像、木造日光・月光菩薩立像 吹田市指定有形文化財:絹本著色妙音天像 |
圓照寺(えんしょうじ)は、平安時代初期の仁寿3年(853年)、文徳天皇の勅願により天台宗の高僧・慈覚大師円仁によって創建されたと伝えられる古刹です。 円仁自らが彫刻した等身大の千手観音像をご本尊とし、「千里山田の観音さま」として人々の信仰を集めてきました。 その後、宇多天皇の勅命により寛平6年(894年)に理源大師聖宝(しょうぼう)が入寺し、皇后の病気平癒を祈願。 このことを契機に、当寺は天台宗から真言宗の道場へと転じ、高野山真言宗の法脈を受け継ぐ寺院となりました。
平安末期から中世にかけては寺運が隆盛を極め、寺域は千里山田一帯に広がり、多くの堂宇や僧坊を擁しました。 しかし、応仁の乱(1467年~)の戦火で伽藍の大半を焼失し、一時は無住となり荒廃します。 江戸時代初頭の万治年間(17世紀後半)、僧・覚祐(かくゆう)が当地領主・板倉氏の援助を得て本堂を再建し、中興の祖として寺勢を回復しました。
明治維新期の廃仏毀釈では諸堂が破却される被害を受けましたが、地元の人々の信仰により護持され、 昭和45年(1970年)に本堂が再建、平成8年(1996年)には准胝堂(奥之院)や鐘楼も再建され、現在の姿を保っています。 圓照寺は現在、高野山真言宗に属しますが、摂津国三十三所観音霊場第28番札所、摂津国八十八箇所霊場第43番札所として、宗派を問わず多くの参拝者を迎えています。
地元では古くから「圓照寺の観音さまに子どもを授かった」という言い伝えがあり、 安産・子授けのご利益で篤い信仰を集めてきました。 朝夕に響く鐘の音は山田の町の風景の一部となり、かつて境内で盆踊り大会が開かれたように、 今も地域に根差した信仰と文化の伝統が息づいています。
現在の本堂は昭和45年(1970年)に再建された鉄筋コンクリート造瓦葺きの建物です。 内部には秘仏のご本尊・千手観音菩薩像(等身大、千の手を持つ観音像)が安置され、 両脇には平安時代作の木造日光・月光菩薩立像(大阪府指定文化財)が祀られています。 このほか薬師如来、不動明王など多くの仏像が安置され、年中行事の法要はすべて本堂で執り行われます。 本堂前には「高野山真言宗圓満山圓照寺」と刻まれた石碑が建ち、参拝者を迎えます。
本堂右手の石段を登ると、平成8年(1996年)に新築された奥之院・准胝堂があります。 ご本尊は平安時代作の木造准胝観音立像(大阪府指定有形文化財)で、 八面八臂の姿を持つ安産・子授けの観音として信仰されています。 通常は非公開ですが、毎年1月18日の初観音と7月10日の千日参りの年2回に限り御開帳されます。 また堂内には右脚を高く上げた珍しい姿の十一面観音立像(通称「片足の観音さま」)も奉安され、 厄除けや勝運祈願の観音として信仰を集めています。
准胝堂の手前に建つ入母屋造の鐘楼は、昭和30年(1955年)に再鋳された梵鐘が現在も朝・昼・夕に撞かれ、 清らかな音色が山田の町に響きます。大晦日の除夜の鐘では、訪れた参拝者が108の鐘を共に撞き新年を迎えます。 鐘楼の奥には弁天堂があり、弁財天を当寺の鎮守神として祀った社殿が静かに佇んでいます。 石造の鳥居と祠が並び、静謐な祈りの空間を形成しています。
准胝堂の裏手にある地蔵塚には、千里山田各地から集められた多数の石地蔵が安置されています。 老朽化した地蔵堂は平成30年の地震で被災・解体されましたが、 現在も屋外でお地蔵さまたちが静かに人々を見守っています。 近くには1905年建立の日露戦役記念碑もあり、戦争で命を落とした地元出身者の名が刻まれています。
境内の一角には推定樹齢150年以上のヤマザクラの大樹があり、春には淡紅色の花を満開に咲かせます。 「圓照寺の桜が咲く頃に田植えを始める」と言われ、古くから地域の季節の指標とされてきました。 現在は吹田市の保護樹木に指定され、大切に保存されています。 また、南天の木が「難を転ずる」縁起物として植えられており、冬には赤い実を付けて境内を彩ります。
圓照寺では年間を通じて多くの仏教行事が行われています。 新年の修正会(1月1日~3日)に始まり、1月18日の初観音会、3月の涅槃会、春・秋の彼岸会、 7月10日の千日参り(この日に准胝観音が御開帳)や8月24日の地蔵盆など、季節ごとの行事が受け継がれています。 大晦日には除夜の鐘が撞かれ、地域の人々とともに一年を締めくくります。 四季折々の法要を通じ、圓照寺は信仰と地域文化をつなぐ場として今も多くの参拝者に親しまれています。
仁寿3年(853年)
文徳天皇の勅願により、慈覚大師円仁が当地に千手観音霊場を創建。 自ら一刀三礼して等身大の千手観世音菩薩立像を彫刻し、本尊として安置した。
貞観12年(870年)
清和天皇が当寺に行幸し、多くの荘園を寄進。 これにより寺勢が高まり、本尊の千手観音像には勅封が施され秘仏と定められた。
元慶6年(883年)
陽成天皇が重病の際、勅使を派遣して本尊を開帳し祈願。 病が平癒したため、御礼として日光・月光菩薩像(二体の脇侍像)を下賜した。
寛平6年(894年)
宇多天皇の勅命により、真言宗の高僧・理源大師聖宝が入寺。 皇后の病平癒を祈願し全快したことから、当寺は天台宗から真言宗の道場へ転じ、 「高野山真言宗 圓満山 普門院 圓照寺」として法灯が継承された。
平安末期~室町時代
鎌倉・南北朝期を経て室町時代には観音堂・護摩堂・奥之院など七堂伽藍が整い、 円実坊・十地坊など十余りの坊舎を構えるまでに発展した。
応仁元年(1467年)頃
応仁の乱の戦火が北摂にも及び、細川家臣・香西玄蕃が当地に立て籠もった際、 寺領が横奪され諸堂は兵火で焼失。僧侶たちは離散し、寺は無住となり荒廃した。
万治年間(1660年前後)
江戸時代初頭、中興の祖・覚祐が再建を開始。 板倉氏や篤信の檀越の援助を受け、現在の地(山田東三丁目)に本堂を再興。 本尊・千手観音を修復し安置したことで、荒廃していた観音霊場は復興を遂げた。
明治元年(1868年)頃
廃仏毀釈により境内の諸堂の一部が破却されるが、本尊は難を逃れる。 一時寺運は衰退するも、地元檀信徒の尽力で信仰が守られた。
大正9年(1916年)
本堂からの失火により、江戸期再建の旧本堂が焼失。 本尊の千手観音像も損傷を受けるが、後に修復された。
昭和45年(1970年)
鉄筋コンクリート造の近代的本堂を新築し、入母屋造瓦屋根の伝統意匠を復興。 秘仏本尊を新本堂に遷座し、観音霊場として再び信仰を集めた。
平成8年(1996年)
奥之院・准胝堂および鐘楼を新築し、老朽化していた地蔵堂も建て替えられた。 境内伽藍の整備が進み、文化財の保護と年中行事の復興が活発化した。
平成30年(2018年)
大阪北部地震および台風21号の被害により、山門と老朽化していた地蔵堂が破損。 安全確保のため解体され、現在再建計画が進行中である。