所在地 | 大阪府吹田市山田東3丁目14-27 |
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電話 | 06-6876-0461 |
宗派 | 真言宗 (高野山真言宗) |
山号 | 圓満山(えんまんざん) |
院号 | 普門院(ふもんいん) |
本尊 | 千手観音菩薩(秘仏) |
創建 | 仁寿3年(853年) |
開基 | 慈覚大師円仁 |
別称 | 千里山田観音 |
札所 |
摂津国三十三所観音霊場第28番 摂津国八十八箇所霊場第43番 |
文化財 |
(府指定有形文化財)木造准胝観音立像(平安時代)・木造観音菩薩立像(伝日光・月光菩薩、平安時代) (市指定有形文化財)絹本著色妙音天像(鎌倉時代) (市登録有形文化財)絹本墨画不動明王像(鎌倉〜南北朝時代) |
HP | 圓照寺(公式) |
円照寺は大阪府吹田市の千里丘陵に位置する高野山真言宗の古刹で、「千里山田観音」の名で古くから親しまれてきました。寺伝によれば仁寿3年(853年)、文徳天皇の勅願を受けた慈覚大師(円仁)が当地に創建し、自ら千手観音像を刻んで本尊としたと伝えられます。
平安時代には清和天皇の行幸により荘園の寄進を受け、本尊の観音像は勅封の秘仏と定められました。その後も歴代天皇の信仰を集め、日光・月光菩薩像の寄進や理源大師聖宝による祈祷など、多くの縁起が伝わっています。
平安末期から室町時代にかけては隆盛を極め、境内に七堂伽藍と十一の僧坊を有しましたが、応仁の乱の兵火で焼失・荒廃。一時は無住となりました。
江戸初期、中興の祖・覚祐が領主板倉氏や門信徒の援助を得て復興を果たし、以後も地域の信仰を支える寺院として歩みを続けました。明治の廃仏毀釈や大正5年の火災によって大きな被害を受けましたが、昭和45年には鉄筋コンクリート造の本堂が落成し、平成8年には准胝堂や鐘楼が再整備され、現在に至ります。
本尊の千手観音菩薩(高さ約1.8m)は、千本の手を備える等身大の立像で、三世利益をもたらす観音として広く信仰されています。創建以来「山田の観音さま」と呼ばれ、宗派を問わず多くの人々に親しまれてきました。
奥之院に祀られる准胝観音立像は子授け・安産の観音様として知られ、「お願いすると女の子を授かる」との言い伝えも残ります。境内では今も一日三度、朝・昼・夕に鐘が撞かれ、地域の生活に寄り添っています。江戸時代から伝わる民俗芸能「権六おどり」の発祥地ともされ、かつては盆踊り大会も行われてきました。
円照寺には多数の仏像・仏画が伝わり、寺全体が小さな仏教美術館のようです。平安前期作の木造准胝観音立像(大阪府指定有形文化財)、同じく平安期の木造観音菩薩立像(二躯、伝・日光菩薩・月光菩薩)、十一面観音立像(片足観音)、阿弥陀如来像や不動明王像などが安置されています。
また、鎌倉時代の妙音天像、鎌倉〜南北朝期の不動明王墨画、涅槃図などの寺宝も所蔵され、特定の縁日や行事に合わせて公開されることもあります。
1970年に再建された鉄筋コンクリート造の本堂。秘仏の千手観音菩薩が安置され、両脇には平安時代作の木造日光・月光菩薩立像(大阪府指定有形文化財)が奉安されています。通常は阿弥陀如来像などが拝容でき、堂内では法要や祈祷が営まれています。
1996年に再建された観音堂。中央に祀られる木造准胝観音菩薩立像(平安時代前期作、大阪府指定有形文化財)は1月18日と7月10日の御開帳日に拝観可能です。十一面観音立像(片足観音)も同堂に奉安されています。
1996年に再建。朝・昼・夕の一日三回、梵鐘が撞かれ地域に響き渡ります。大晦日には除夜の鐘が行われ、参拝者も交代で鐘を撞くことができます。現在の梵鐘は1955年に鋳造されたものです。
地域の石仏地蔵を集めた「地蔵塚」と延命地蔵菩薩を祀る小堂。2018年の地震と台風で倒壊しましたが再建されました。境内には数十体のお地蔵様があり、地蔵信仰の厚さを示しています。
山門跡の脇にある小堂。市杵島姫命(弁才天)を祀り、毘沙門天・大黒天も合祀され境内を守護しています。
境内中央に立つ推定樹齢150年以上の古木。吹田市の保護樹木に指定され、春には淡紅色の花が境内を彩ります。
本堂周辺に植えられた縁起木。秋から冬に赤い実をつけ、常緑の葉とともに冬景色を彩ります。
日露戦争の出征者を慰霊する石碑。戦没者名が刻まれ、地域の戦争史を伝える史跡です。
かつての茅葺入母屋造の仁王門は2018年の災害で解体されました。現在再建工事が進められており、往時の姿の復元が予定されています。
853年
(仁寿3年)
文徳天皇の勅願により慈覚大師・円仁が千里山田の地に観音堂を開創。桜の霊木を感得して千手観音菩薩立像を自ら刻み、本尊として安置したと伝えられる。
870年
(貞観12年)
清和天皇が行幸し、荘園を寄進。本尊の観音像を勅封し秘仏と定めた。
883年
(元慶6年)
病平癒の祈願で本尊を開帳。快癒の御礼として日光・月光菩薩像を下賜。
895年
(寛平6年)
宇多天皇の勅命により聖宝が入寺。21日間の護摩祈祷で皇后の病平癒を祈願。以降、真言密教の道場として発展し、室町期には七堂伽藍と十一の僧坊を構えるまでに隆盛。
1467年頃
(応仁元年前後)
戦火で細川氏家臣が乱入、寺領を横奪。諸堂は焼失し、僧徒も離散。長く無住の荒廃に至った。
1658〜1661年
(万治年間)
覚祐が地元領主・板倉氏らの支援を受けて本堂を再建。散逸していた諸仏を修復安置し、観音霊場として復興。
1868年
(明治元年)
諸堂宇が破却され、寺運が大きく衰退。
1916年
(大正5年)
本堂が焼失。秘仏千手観音立像も損傷を受ける。
1970年
(昭和45年)
鉄筋コンクリート造の本堂を建立。焼失以来半世紀ぶりに本格的な本堂が再建される。
1996年
(平成8年)
奥之院准胝堂と鐘楼を新築。老朽化していた施設を整備し、現代的な境内に。
2018年
(平成30年)
大阪府北部地震と台風21号で山門と地蔵堂が損壊。倒壊の危険のため解体撤去。
令和時代
(2020年代)
地蔵堂を再建。山門の再建工事も進行中で、2025年現在も継続中。完成すれば百年ぶりに荘厳な山門が復元される予定。