| 寺院名 | 光蓮寺(こうれんじ) |
|---|---|
| 所在地 | 大阪府大阪市西淀川区福町2丁目28-19 |
| 山号 | 若江山 |
| 宗派 | 浄土真宗本願寺派 |
| 本尊 | 阿弥陀如来 |
| 創建 |
室町時代(文明年間) ※寺伝では河内国若江にて開かれ、文明9年(1477年)に現在地へ遷座 |
| 開基 | 浄教(じょうきょう) |
| 中興 | 蓮如上人(1470年に天台宗から浄土真宗に改宗) |
| 文化財 | 親鸞聖人絵像(永正10年〈1513年〉、本山第九世実如下付) |
光蓮寺は、大阪市西淀川区にある浄土真宗本願寺派の寺院で、山号を若江山と称し、本尊に阿弥陀如来を安置しています。もとは河内国若江郡(現在の東大阪市付近)に創建された寺院で、寺伝によれば物部守屋滅亡後、その館を寺としたのが始まりとも伝えられています。中世には若江郡稲葉(現・東大阪市役所付近)で法灯を継ぎ、「若江山光蓮寺」と号していました。
文明7年(1470年)には、浄土真宗中興の祖・蓮如上人が当地を訪れ、もとは天台宗であった当寺を浄土真宗に改宗したと伝えられています。戦国期の兵乱により一時衰退したものの、文明9年(1477年)に現在の地へ移転し再興されました。以後、本願寺の門末寺院として発展し、永正10年(1513年)には本願寺第9世・実如より親鸞聖人の御影(絵像)を下付されており、この頃すでに「光蓮寺」の寺号を称していたことが裏書から確認できます。
天文年間(1530年代)には石山本願寺へ度々出仕し、天文5年(1536年)や天文10年(1541年)の『天文日記』に「若江光蓮寺」の名が見られるなど、河内門徒衆の有力寺院として経済的にも大きな役割を果たしていたことがうかがえます。江戸時代から明治期にかけては地域門徒の信仰の拠点として存続し、昭和初期には寺門前に「稲城址」と刻まれた石碑が建立されました。これは、聖徳太子が物部守屋を討った際に築かれたとされる稲城の跡地であることを示しています。
第二次世界大戦後の都市開発に伴い、寺院は現在の西淀川区福町に堂宇を構え直し、地域に根ざした布教と社会活動を展開してきました。近年では「ビハーラハウス」と称するコミュニティ施設を設け、子ども食堂やヨガ教室、テレワーク利用者への開放など、福祉と交流の場としても活用されています。三階建て旅館を改装した建物内に本堂や客殿を整備し、相談対応や墓地・納骨堂の預かりサービス(預骨)など、現代的なニーズに応える新たな寺院像を実践しています。
光蓮寺の本堂は、都市型寺院ならではのコンパクトな建築の中核に位置し、阿弥陀如来をご本尊として安置する御堂空間です。建物内部には内陣と外陣が設けられ、法要や礼拝が営まれています。鉄筋コンクリート造の外観ながら、正面入口には寺号が掲げられ、現代建築の中に寺院としての役割が明確に示されています。
敷地内には小規模ながら庭や墓地が併設され、参拝者が建物に入らずとも手を合わせられるよう配慮されています。都市部にありながら静かな祈りの場が保たれており、地域に根差した寺院としての役割を感じさせます。
境内の一角には、一願日限地蔵尊が祀られています。「一つの願いを期日を定めて祈る」という信仰に基づく地蔵尊で、地域の人々から篤い信仰を集めています。毎年夏の地蔵盆には子どもたちを中心とした祭礼が行われ、町内の安全や子どもの成長を願う風習が今も続いています。
本堂横には納骨堂を兼ねた施設が整備され、事情によりすぐに納骨できない遺骨を一時的に預かり供養する「預骨堂」として機能しています。遠方の門徒や無縁仏となる恐れのある遺骨にも配慮した、現代的な供養のかたちが実践されています。
光蓮寺の大きな特色は、本堂・庫裡が従来の寺院建築ではなく、昭和期の旅館を改修したリノベーション建築である点です。エレベーターや水まわり設備を備えたバリアフリー対応の建物で、限られた敷地の中に本堂、客殿、庫裡、宿泊室などを効率よく配置しています。
光蓮寺では「蓮の葉処」と名付けられた客室を備え、事前予約により宿坊体験も可能です。宗派や地域を問わず受け入れており、晨朝の勤行や写経会、法話会への参加を通じて、現代的なビハーラ(憩いの場)としての新しい寺院の姿を体感することができます。
587年
(用明天皇2年)
物部守屋がこの地に砦「稲城」を築き抗戦したと伝えられています。守屋滅亡後、その館跡が寺の起源になったという伝承が残されています。
1470年
(文明2年)
蓮如上人が稲葉にあった当寺を訪れ、天台宗から浄土真宗本願寺派へと改宗させたと伝えられています。
1477年
(文明9年)
戦乱を避けるため河内国若江郡から摂津国側(現在地付近)へ寺基を移転し、「若江山光蓮寺」として再興されました。
1513年
(永正10年)
本願寺第九世・実如より親鸞聖人の御影(絵像)が下付されました。裏書には「光蓮寺」の寺号が記され、当時から正式に光蓮寺と称していたことが確認できます。
1536年
(天文5年)
石山本願寺での法要に「若江光蓮寺」が参仕した記録が『天文日記』に残されています。以降も本願寺との関係を深め、河内門徒の拠点寺院として栄えました。
1939年
(昭和14年)
光蓮寺門前に「稲城址」と刻まれた石碑が建立されました。聖徳太子と物部守屋の戦いの伝承地であることを今に伝えています。
2020年
(令和2年)
新型コロナウイルス流行下に「光蓮寺ビハーラハウス」を設立。テレワーク利用者への寺院開放や一時預骨サービスを開始し、地域支援型の取り組みを本格化させました。