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光明寺こうみょうじ

文禄年間に義空上人が開いた、天満ゆかりの歴史を今に伝える仏光寺派の古刹

所在地 大阪府大阪市北区南扇町2-13
宗派 浄土真宗仏光寺派(真宗佛光寺派)
本尊 阿弥陀如来
創建 文禄4年(1595年)
開山 霊誉義空上人(れいよぎくう しょうにん)

文禄年間に義空上人が開いた、北野村ゆかりの歴史を今に伝える仏光寺派の古刹

光明寺(こうみょうじ)は、文禄4年(1595年)に開創された浄土真宗仏光寺派の寺院で、開山は霊誉義空上人と伝えられています。豊臣秀吉の治世下、大坂北部の北野村(現在の大阪市北区)東端に建立され、東側にはかつて堀川が流れ、対岸には天満の町が続いていました。現在は都市部の一角に溶け込むこぢんまりとした寺院で、外観が民家のようにも見えるほど控えめな佇まいですが、古くから地域の念仏道場として信仰を集めてきました。なお、一般参拝は受け付けておらず、檀信徒向けの非公開寺院です。

光明寺は地域史とも深く関わっています。元禄16年(1703年)に実際に起き、近松門左衛門の名作『曽根崎心中』として広く知られる「お初・徳兵衛」の心中事件。光明寺には、この二人の墓があったという伝承が残されています(真偽は不明)。芝居の舞台として名高い「お初天神(露天神社)」からも程近い当地ならではの逸話として、歴史愛好家の関心を集めています。

さらに明治時代には、光明寺境内地の近隣に「堀川監獄(大阪監獄署)」と呼ばれる司法施設が設置されました。現在も境内には堀川監獄ゆかりの石碑が残されており、明治初期の司法行政の痕跡を今に伝えています。都市化が進む中でも、光明寺は静かにその歴史を伝える存在として地域に残り続けています。

  • 江戸後期再建の木造本堂が残る境内

    光明寺の本堂は天保8年(1837年)の大火後に再建されたもので、嘉永元年(1848年)までに整えられたと伝わります。木造瓦葺きの伝統意匠を備え、幕末の寺院建築の面影を今に伝えています。

  • 大阪大空襲を免れた貴重な堂宇

    昭和20年の大阪大空襲でも光明寺の本堂は奇跡的に焼失を免れ、江戸後期の再建構造が現存している可能性があります。都市化の波に囲まれながらも歴史を宿した建築が残されています。

  • 控えめな外観と伝統的な内陣

    外観は住宅のように控えめで、寺院と気づかず通り過ぎてしまいそうな佇まいです。しかし内部には浄土真宗寺院らしい阿弥陀如来の荘厳が整い、古くから門徒の信仰の中心として機能しています。

  • 山門のないシンプルな境内

    立派な山門は設けられず、境内はこじんまりとした造りになっています。寺院の規模は大きくないものの、歴史的空間としての静けさを保っています。

  • 堀川監獄ゆかりの石碑が残る史跡

    境内には明治時代の司法施設「堀川監獄」ゆかりの石碑が残されており、地域の歴史を今に伝える史跡として静かに佇んでいます。

光明寺のあゆみ

  • 1595年
    (文禄4年)

    光明寺の創建

    霊誉義空上人により光明寺が創建される。浄土真宗仏光寺派の寺院として開基し、北野村の念仏道場として始まる。

  • 1703年
    (元禄16年)

    曽根崎心中ゆかりの伝承

    近松門左衛門『曽根崎心中』の実際の事件が発生。後年、「お初・徳兵衛の墓が光明寺にあった」という地域伝承が生まれる(真偽不詳ながら有名な逸話)。

  • 1837年
    (天保8年)

    天満の大火で伽藍焼失

    天満の大火により光明寺の堂宇がすべて焼失。地域の真宗寺院にも甚大な被害が及んだ。

  • 1848年
    (嘉永元年)

    堂宇の再建

    天保11年頃より復興が進み、本堂など主要伽藍が嘉永元年までに再建される。現在の本堂の構造につながる再興期となる。

  • 19世紀後半
    (明治時代)

    堀川監獄の設置

    光明寺周辺に「堀川監獄(大阪監獄署)」が設置される。関連史跡として石碑が境内に残され、地域の司法史を今に伝える。

  • 1945年
    (昭和20年)

    大阪大空襲を免れる

    大阪大空襲(3月・6月)の戦災を奇跡的に免れ、本堂など堂宇が焼失を免れる。江戸後期再建の本堂が現存する可能性を残す重要な転換点となった。

  • 現代

    市街地に残る静かな古刹

    大阪都心の中にありながら、往時の穏やかな寺観を今に伝える非公開寺院として存続。地域史を物語る貴重な存在となっている。

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