| 所在地 | 大阪府大阪市北区長柄西2丁目12-5 |
|---|---|
| 電話 | 06-6351-4081 |
| 宗派 | 浄土真宗本願寺派(西本願寺) |
| 山号 | 無碍光山 |
| 創建 | 永正14年(1517年)/開基:蓮如上人の直弟子・蓮師 |
光明寺(こうみょうじ)は、大阪市北区長柄に位置する浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺院で、山号を「無碍光山(むげこうざん)」と称します。創建は戦国時代の永正14年(1517年)で、浄土真宗中興の祖・蓮如上人の直弟子であった僧侶・蓮師(れんし)が当地に念仏道場を開いたことに始まると伝えられています。
その後、親の仇討ちを経て無常を悟り出家したという菅原道真一門の末裔・菅九郎左衛門が二代目住職を継いだことから、かつては「九郎左衛門道場」とも呼ばれていました。後に正式名称を無碍光山光明寺と改め、江戸時代を通じて地域の浄土真宗寺院として檀信徒の信仰を集めてきました。現在は一般参拝不可の非公開寺院となっていますが、地域の歴史に深く関わる人物の墓所が残されていることでも知られています。
とりわけ有名なのが、境内に残る「義人」松野登十郎(まつの とじゅうろう)の墓です。登十郎は田安徳川家に仕えた江戸後期の武士で、文政3年(1820年)に摂津国南長柄村の代官に任命されました。翌年から地域一帯が大飢饉に見舞われた際、彼は領民を救うため主家に年貢の減免を嘆願しましたが受け入れられませんでした。そして文政7年(1824年)、登十郎は上申書を残して代官屋敷にて自刃し、自らの死をもって主家に直訴したと伝えられています。
その壮絶な最期に心を動かされた領主側は、登十郎の死後に南長柄の年貢を3年間免除し、困窮していた領民を救済しました。以後、地域の人々は登十郎を「義人」と称え、光明寺の境内に手厚く葬りました。現在も墓石が残されており、長柄地域で語り継がれる歴史的史跡として静かに佇んでいます。
光明寺の境内は市街地の一角にありながら、瓦葺きの本堂を中心に、庫裡などの建物が整然と配置された伝統的な伽藍構成を保っています。規模は小さいものの、浄土真宗寺院らしい落ち着いた佇まいを感じさせます。
本堂・庫裡などの建造物は近代以降に改築・補修が施されており、文化財指定はありません。外観は比較的新しいものの、内部は浄土真宗寺院の典型に従い、内陣・外陣が整えられていると考えられます(非公開)。
本堂裏手には寺院墓地があり、その一角に江戸後期の義人・松野登十郎の墓碑が今も静かに佇んでいます。地域史に深く関わる人物の墓所が現存することで、光明寺は小規模ながら貴重な歴史文化遺産を伝える場となっています。
1517年
(永正14年)
蓮如上人の門弟であった蓮師が長柄の地に念仏道場を開いたのが光明寺の始まりと伝えられる。
16世紀前半
菅原道真の系譜に連なる菅九郎左衛門が2代目住職となり、「九郎左衛門道場」と称された時期。後に正式な寺号を無碍光山光明寺とする。
1824年
(文政7年)
凶作に苦しむ領民を救うため年貢減免を嘆願した代官・松野登十郎が諫死。その義挙により領民が救済され、登十郎の遺骸は光明寺に葬られた。墓碑は現在も境内に残る。
1925年
(大正14年)
大阪市の市域拡張により長柄地域が大阪市へ編入(当初は東淀川区北長柄町・南長柄町)。のちの行政区再編を経て1989年より北区となり、現在の所在地となる。
現在
一般参拝は不可だが、義人登十郎の墓所が残され、地域の歴史的遺産として大切に守られている。都市化の中で静かに信仰と伝統を継承している。