所在地 | 大阪府吹田市内本町1丁目4-7 |
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電話 | 06-6382-0537 |
宗派 | 浄土真宗本願寺派(西本願寺) |
山号 | 無碍山(むげさん) |
本尊 | 阿弥陀如来(木造立像) |
創建 | 天文11年(1542年) |
開基(創立者) | 道清(どうせい) |
光徳寺の始まりは戦国時代、中世末期にさかのぼります。寺伝によれば、土地の豪農であった道清という人物が天文11年(1542年)に一宇を開いたのが起源とされています。当時は浄土真宗の布教拠点(道場)として、開基の俗名にちなみ「道清道場」と呼ばれていました。その存在は豊臣秀吉による太閤検地の記録にも見え、文禄3年(1594年)の摂津国吹田村の検地帳に「道せい(道清)」の名が記されていることから、16世紀末には既に当地に真宗道場があったことがうかがえます。
江戸時代に入ると、この道場は正式に寺院としての寺号が許可され、善正寺(ぜんしょうじ)と称しました。万治2年(1659年)作成の宗旨帳(寺院台帳)にも「善正寺」と記録が残っています。その後、江戸中期の正徳3年(1713年)9月、第七世住職・玄貞の代に寺号を現在の「光徳寺」へと改めることが許可されました。「光徳」の寺名には、阿弥陀如来の光明と徳にあやかった意味が込められているとも言われます。玄貞は寺号改称とともに寺院整備に尽力し、門徒の協力を得て七間四面規模の本堂を造営しました。この本堂は八世・玄清の代の明和2年(1765年)に竣工しており、以後250年以上にわたり使用されています。江戸時代中期建立の堂宇が現存する寺院は吹田市内でも貴重な存在です。
現在の境内には、往時の趣きを伝える建築や仏教文化財が点在しています。入口には石柱の寺号標が立ち、風格を漂わせています。正門にあたる山門(三門)は伝統的な様式を持ち、通常は閉じられていますが右手に通用口があります。境内に入ると、浄土真宗の開祖・親鸞聖人像が参拝者を迎えます。像は信仰の対象であるとともに、門徒や訪問者の心を静かに導いています。その横には入母屋造りの鐘楼堂があり、朝夕に鳴らされる梵鐘は地域に時を知らせてきました。
境内中央奥に建つ本堂は江戸中期に建立された木造建築で、桁行七間・梁間四間の規模を誇ります。堂内には本尊・阿弥陀如来を安置し、荘厳な内陣が設えられています。柱や梁には時代を経た木材の風合いが残り、歴史の重みを感じさせます。春先には本堂前に紫木蓮(シモクレン)の花が咲き誇り、境内の草花とともに訪れる人々の心を和ませます。厳粛さと開放感を兼ね備えた境内には、地域住民のお参りや史跡巡りの観光客の姿が見られ、信仰と交流の場として今も生き続けています。
光徳寺の本堂は江戸時代中期の明和2年(1765年)に完成した木造瓦葺きの大伽藍です。浄土真宗本願寺派の典型的な阿弥陀堂建築で、正面に軒唐破風を備え風格があります。内部正面に安置される本尊・阿弥陀如来像に向かって礼拝でき、堂内には親鸞聖人の御影や歴代住職の位牌なども祀られています。歴史を感じる重厚な造りの本堂は、光徳寺最大の見どころです。
境内入口に立つ門。切妻造りの薬医門形式とも言われ、格式を感じさせる木造門ですが、通常時は扉が閉ざされています。参拝の際は山門右脇の通用門から入ります。門前には寺号を刻んだ石柱(寺号標)が建ち、ここから本堂へ石畳の参道が伸びています。
山門を入ってすぐ境内に立つ親鸞聖人の像です。浄土真宗の宗祖・親鸞の立像で、多くの本願寺派寺院と同様に境内のシンボルとなっています。穏やかな表情の聖人像は、参拝者が手を合わせる姿も見られる信仰の対象です。
境内に建つ鐘楼堂には、梵鐘(つり鐘)が吊るされています。朝夕の時刻や法要の合図に鐘の音が鳴らされ、近隣にもその音色が響きます。鐘楼堂の建物自体も歴史を感じさせる造りで、瓦屋根の下に鐘が収まった姿は寺院風景の一つになっています。
正式な枯山水庭園があるわけではありませんが、境内には植栽や鉢植えの草花が整えられ、四季折々の自然が感じられます。春には紫色の木蓮の花がひときわ目を引き、足元には水仙など季節の花も咲きます。これらの花々は境内に彩りを添え、訪れる人の目を楽しませてくれます。
1542年
(天文11年)
土地の豪族・道清が浄土真宗の道場を開設。後に光徳寺の起源と伝えられる。
1594年
(文禄3年)
豊臣秀吉による太閤検地の吹田村検地帳に、道清道場を示す記述(「はまの堂屋敷三畝 道せい」)が残されている。
17世紀前半~中頃
正式に寺号が許され「善正寺」と称するようになる(正確な年は不詳)。江戸幕府により寺院台帳への登録が行われた。
1659年
(万治2年)
宗門改帳(宗旨人別改帳)に「善正寺」の名で記載されていることが確認できる。
1713年
(正徳3年)
第7世住職・玄貞の代に寺号を「光徳寺」に改称。寺院整備を開始し、本堂造営に着手。
1765年
(明和2年)
第8世住職・玄清の代に本堂が竣工。以後、現在に至るまで光徳寺の本堂として使用されている。
明治以降
廃仏毀釈などの荒廃期を経ても寺は存続し、地域の浄土真宗寺院として信仰を集める。昭和戦後も本堂の修復や庫裏の改築などを行い、現在まで寺格を保っている。
現代
年間を通じて報恩講や永代経などの法要を継続し、地域住民に開かれた寺として活動。近年は公式サイトやSNS等を通じて情報発信も行っている。