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光國寺こうこくじ

南北朝期に真言道場として創建され、蓮如上人の教化で浄土真宗へ改宗した歴史ある古刹

所在地 大阪府豊中市庄本町1丁目7-9
電話 06-6333-3349
宗派 浄土真宗本願寺派(西本願寺)

江戸中期の本堂と中世の梵鐘を今に伝え、赤穂浪士・萱野三平ゆかりの供養碑を有する椋橋山 光國寺

光國寺(こうこくじ)は、大阪府豊中市庄本町にある浄土真宗本願寺派(西本願寺系)の寺院で、山号を「椋橋山(くらはしさん)」と称する。 寺伝によれば、南北朝時代に多田源氏の家臣・石黒右京進が出家し、「一乗律師」の法名で当地に真言宗の道場を開いたのが始まりとされる。 創建年は定かではないが、明徳2年(1391年)には池田光重が鐘楼と梵鐘を寄進し、藤原秀安が鋳造した記録が残っており、14世紀末までに寺院が成立していたことが確認できる。

15世紀に入ると、浄土真宗の教線が摂津一帯に広まり、光國寺もその影響を受けて改宗する。 当時の住職(石黒右京進と伝えられる)は、本願寺第8世法主・蓮如上人の教化に深く感銘を受け、弟子となって「願生」の法名を授かったという。 蓮如からは御文(御文章)と自筆の六字名号「南無阿弥陀仏」を拝領し、これを機に真言宗から浄土真宗へと転じた。 この改宗は文明年間(1470年代)頃の出来事と推定され、石黒一族が本願寺門徒として新たな道を歩み始めた転換点となった。

江戸時代初期の慶長15年(1610年)、本願寺より正式に寺号「妙圓寺(みょうえんじ)」を与えられ、阿弥陀如来の木造本尊を下付された。 さらに正徳2年(1712年)には寺号を現在の「光國寺」と改称し、以後は「椋橋山 光國寺」として今日まで続いている。 この「椋橋山」の山号は、隣接する古社・椋橋総社(くらはしそうしゃ)にちなむもので、地域と深いつながりを持つことを示している。

18世紀中頃、明和から宝暦年間にかけて本堂は大規模改修を受け、茅葺から瓦葺へと葺き替えられた。 宝暦元年(1751年)の記録には屋根改修の詳細が記され、現在の本堂にもその江戸中期の面影が残る。 以後、近代に至るまで大きな災厄を免れ、廃仏毀釈や戦災の被害も伝わっていない。

平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災では堂宇の一部が損傷を受けたが、修復工事によって往時の姿を取り戻した。 現在の光國寺は、南北朝以来の悠久の歴史を今に伝える古刹として、静かな住宅地にありながら地域の信仰と文化を支える寺院として大切に受け継がれている。

  • 本堂

    江戸中期建立の入母屋造瓦葺きの本堂は、豊中市でも屈指の歴史的建造物。 茅葺きから瓦葺きに改修された18世紀の姿を今に伝え、平成の震災で傷んだ部分も修復されている。 木組みの美しさと重厚な屋根が調和し、堂内には慶長年間に下付された木造阿弥陀如来像が安置されている。 内外に質実な風格が漂い、長い年月を経た木肌が地域の信仰の歴史を物語っている。

  • 梵鐘(寺鐘)

    明徳2年(1391年)に池田光重が寄進し、藤原秀安によって鋳造されたと伝わる古鐘。 14世紀末の作とされ、鐘楼に吊るされた姿は中世の遺風を今に伝える。 鐘身には当時の銘文が刻まれている可能性があり、光國寺が中世から存在したことを示す貴重な遺産である。

  • 阿弥陀如来像・宗教遺産

    慶長年間に本願寺から下付された木造阿弥陀如来像を本尊とする。 江戸初期の作とされ、阿弥陀堂本尊として長年にわたり門徒の信仰を集めてきた。 さらに、親鸞聖人の御影や蓮如上人直筆と伝わる六字名号「南無阿弥陀仏」も伝来しており、寺の宗教的中心をなす宝物である。

  • 萱野三平ゆかりの遺品と供養碑

    赤穂浪士の一人、萱野三平(1670?–1703)ゆかりの短刀や手槍が当寺に伝わる。 三平の実姉が光國寺第15世住職に嫁いだ縁により、遺品が託されたとされる。 境内には三平を慰霊する供養碑が建ち、風化した碑面にはその名が刻まれている。 「四十八人目の忠臣」とも称された彼の忠義と苦悩を今に伝える貴重な史跡である。

  • 山門(さんもん)

    切妻屋根を戴く木造門で、力強い柱と緻密な木組みが見事。 修復を経て往時の姿を保ち、軒裏の組物(くみもの)の美しさは訪れる人の目を引く。 山門をくぐると、石畳の先に阿弥陀堂本堂が姿を現し、静謐な空気に包まれる。

  • 鐘楼(しょうろう)

    本堂脇に建つ方形造の木造鐘楼堂で、創建当初から伝わる梵鐘を吊るす。 小規模ながらも趣があり、鐘の存在は寺の古刹としての風格を感じさせる。 除夜の鐘が撞かれるかは不明だが、古鐘を見上げる参拝者が多い。

  • 萱野三平供養碑

    境内の一角に立つ石碑で、赤穂義士・萱野三平を慰霊するために建てられた。 人の背丈ほどの高さで、碑文には三平の名が刻まれている(風化により一部判読困難)。 忠臣蔵ゆかりの史跡として、静かに人々の手を合わせる姿が見られる。

  • その他の石造物と周辺景観

    境内には石灯籠や石仏などが点在し、椋橋総社の参道沿いに位置している。 門前から鳥居へと続く道は歴史散策ルートの一部で、背後には神崎川が流れる。 水運の要地として栄えた地にあって、光國寺は今も静かにその歴史を伝えている。

光國寺のあゆみ

  • 14世紀(南北朝時代)

    創建(真言宗道場としての起こり)

    多田源氏の家臣・石黒右京進が出家し、「一乗律師」の法名で真言宗の道場を開く。これが光國寺の前身と伝えられる。

  • 1391年(明徳2年)

    鐘楼と梵鐘の寄進

    池田光重が鐘楼と梵鐘を寄進。鋳物師・藤原秀安が梵鐘を鋳造したとの記録が残る。14世紀末には寺院として整備されていたことが確認される。

  • 15世紀後半(文明年間)

    浄土真宗への改宗

    本願寺第8世蓮如上人の布教を受け、当寺住職が感銘を受けて帰依。真言宗から浄土真宗に改宗し、蓮如から御文と名号を下付されて再興する。

  • 1610年(慶長15年)

    寺号「妙圓寺」の公称

    本願寺(西本願寺)より正式に寺号「妙圓寺」が与えられ、阿弥陀如来の木造本尊が下付される。浄土真宗寺院としての寺格を確立。

  • 1702年(元禄15年)

    赤穂事件と萱野三平の供養

    赤穂事件が発生。浪士の一人萱野三平は主君浅野長矩への忠義と父への孝行の板挟みに苦悩し自刃。 彼の姉が光國寺第15世住職に嫁いでいた縁で、遺品の短刀や手槍が寺に伝わり、境内に供養碑が建立された。

  • 1712年(正徳2年)

    寺号を「光國寺」に改称

    「妙圓寺」から「光國寺」へと改称し、現在の寺名となる。以後、「椋橋山 光國寺」として存続する。

  • 1751年(宝暦元年)

    本堂の大改修

    本堂の屋根を茅葺から瓦葺に改める大規模な改修を実施。江戸中期の堂宇として整備され、現在もその趣きを残す。

  • 1995年(平成7年)

    阪神・淡路大震災による被災と修復

    1月17日の阪神・淡路大震災で堂宇が一部損傷。修復工事によって復旧し、震災前と変わらぬ姿を取り戻す。

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