所在地 | 大阪府吹田市岸部中1丁目21-11 |
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電話番号 | 06-6388-3046 |
宗派 | 浄土真宗本願寺派 |
創建 | 天文年間(1532〜1555年)頃〔室町時代後期〕 |
本尊 | 阿弥陀如来(絵像) |
寺宝・文化財等 | 阿弥陀如来及び四十八体仏絵像(方便法身尊像/本願寺より下付)、他 |
來光寺は、戦国時代の本願寺勢力拡大期に岸部の地で念仏道場として始まったとされます。現存する記録は少ないものの、吹田市域における浄土真宗の広がりは本願寺第10世・証如および第11世・顕如の時代、天文から天正年間(1532〜1592年)にかけてと推定されます。來光寺もこの頃に本願寺から阿弥陀如来の絵像(方便法身尊像)を下付され、本尊として祀ったことにより正式な寺院となったと伝わります。
方便法身尊像とは、中世後期の浄土真宗で生み出された独自の尊像で、蓮華座上に立つ阿弥陀如来から放たれる四十八条の光明の周囲に四十八体の小仏が配された荘厳な絵像です。この尊像は阿弥陀如来の四十八願を象徴するもので、來光寺に伝わる寺宝として今日まで大切に守られています。
江戸時代には岸部村の門徒たちの信仰拠点として機能し、葬儀や法要、報恩講などを執り行って地域に根差しました。明治維新後も真宗寺院として存続し、第二次世界大戦中も大きな被害を受けることなく戦後へと受け継がれました。昭和から平成にかけて岸部地区の宅地開発が進む中でも、來光寺は本堂や諸施設の改修を重ね、信仰の場を守り続けています。
現在でも毎年11月の報恩講やお盆の法要には多くの門徒や地域の人々が集い、先祖供養や親鸞聖人の徳を偲ぶ行事が厳かに営まれています。観光で訪れる際、運が良ければこうした伝統行事に触れ、地域に根付いた浄土真宗の文化を体感できるでしょう。
境内に入るとまず目に入るのが木造瓦葺きの山門です。シンプルな薬医門ながら歴史を経た風格が漂い、落ち着いた雰囲気を醸し出しています。 その横には入母屋造の鐘楼があり、大きな梵鐘が存在感を放っています。正午や夕刻には鐘の音が響き、心洗われる思いを体験できます。 大晦日には除夜の鐘が撞かれ、地域の人々と参拝者が一年の無事を感謝し、新年を迎えます。鐘楼は來光寺のシンボル的存在として参拝客に強い印象を残します。
境内奥にある本堂には本尊・阿弥陀如来像が安置されています。來光寺の本尊は阿弥陀如来と四十八体の小仏が描かれた「方便法身尊像」で、法要の際に荘厳に飾られます。 外観は近代に改修され比較的新しいですが、内部は金色に輝く御宮殿や荘厳具が配置された厳かな空間です。 季節の行事では提灯や幔幕が飾られ、お盆の夕刻には灯籠や蝋燭が並び、幻想的な風景が広がります。
境内の裏手には歴代住職や門徒の墓碑が並ぶ墓地があります。地域の多くの人々の先祖が眠っており、お盆や彼岸には家族連れが墓参に訪れます。 緑に囲まれた墓域は静寂で、寺全体に穏やかな空気を与えています。境内には小規模ながら手入れの行き届いた庭もあり、春には桜、秋には落葉が石畳を彩り、四季の移ろいを楽しむことができます。
境内には掲示板が設置され、法話会や行事のお知らせが掲示されています。タイミングが合えば念仏講や寺ヨガといった現代風のイベントに参加できることもあります。 観光で訪れた人も寺務所で気軽に問い合わせれば、住職や門徒が來光寺の歴史や教えを優しく説明してくれるでしょう。
天文年間
(1530年代頃)
本願寺第10世・証如の時代、岸部の地に浄土真宗の念仏道場が開かれる。顕如の代までに布教が広がり、來光寺の起源が形成されたとされる。
安土桃山時代
(16世紀後半)
西本願寺より本尊「方便法身尊像」を下付され、寺号「來光寺」を公称して寺院として成立。岸部村の門徒を束ねる道場として機能。
江戸時代
本堂や庫裏の整備が進み、寺子屋的な役割も担う。報恩講などの年中行事が盛大に営まれ、住民の信仰生活の中心となる。
1868年
(明治元年)
神仏分離令の影響で一時的に神号(妙見宮)に改称した可能性があるが、廃寺を免れ存続。以降も真宗寺院として葬祭や法事を担う。
昭和戦後
(20世紀後半)
都市化に伴い境内整備や本堂改築を実施。1970年代までに本堂や山門が修復され、照明や音響設備を導入。盆踊りや寺子屋イベントなど地域行事も行われるようになる。
平成以降
(2000年代)
永代供養墓の新設や本堂耐震補強を実施。吹田市仏教会の一員として合同行事や社会貢献活動にも参加。
令和時代
(現在)
境内の一部を「ふれあい広場」として開放。定例法話会や写経会には近隣だけでなく遠方からの参拝者も集う。歴史ある鐘楼や本尊を目当てに観光客も訪れる静かな観光スポットとなっている。