所在地 | 大阪府池田市畑1丁目18-17 |
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TEL | 0727532567 |
山号 | 摩耶山 |
宗派 | 黄檗宗(禅宗) |
創建 | 1654年(承応3年) |
開山 | 隠元隆琦 |
開基 | 青木重兼(麻田藩第2代藩主) |
本尊 | 釈迦如来 |
札所 | 摂北三十三ヶ所観音霊場 第27番札所 |
仏日寺は、黄檗宗に属する禅寺で、山号を「摩耶山」といいます。江戸時代に麻田藩の藩主の菩提寺として建立され、中国明朝様式の左右対称な伽藍配置が特徴の寺院です。摂北三十三ヶ所観音霊場の第27番札所にも指定されており、境内には戦国時代の史料『信長公記』の著者として知られる太田牛一の墓所も残されています。歴史的な背景と文化的価値が豊かなこの寺院は、多くの歴史愛好家や仏教信仰を持つ人々に親しまれています。
仏日寺の本堂は仏殿とも呼ばれ、1654年(承応3年)の寺院再建時に建立された堂宇です。黄檗宗の開祖・隠元隆琦ゆかりの寺院ということもあり、中国風の意匠が随所に施されています。堂内には本尊である釈迦如来像が安置されており、この仏像を中心に荘厳な法要が行われます。創建当初より今日に至るまで幾度かの修復を経ながら本堂は大切に保存されており、静寂なたたずまいの中に歴史の重みを感じさせます。
山門は仏日寺の正門にあたる建築物で、伽藍の入口として威風を放っています。江戸時代の再建期に建立された当初の山門は、三間一戸の楼門形式で、中国様式の意匠を凝らしたものでした。1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災ではこの山門が損傷を受け、大きなひびが入るなど倒壊の危険が生じました。そのため翌1996年に山門は旧来の姿を模して再建され、現在見られる山門は震災復興のシンボルともなっています。再建された山門も創建当時のデザインを可能な限り踏襲しており、朱塗りの柱や洗練された屋根瓦の曲線が仏日寺の歴史と格式を伝えています。
仏日寺の本尊は釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)、つまりお釈迦様の尊像です。黄檗宗の寺院では本尊に釈迦如来を祀ることが多く、仏日寺も例にもれず開創当初より釈迦如来像をご本尊としています。伝承によれば、この釈迦如来像は創建時に中国から渡来した僧侶や職人の手によってもたらされたとの説もあり、独特の風貌や衣紋の表現に明朝仏教美術の影響を見ることができます※。本尊は普段本堂内陣に安置されており、参拝者はその御前で手を合わせてお釈迦様の慈悲に思いを馳せます。また、仏日寺は観音霊場の札所でもあることから、境内には観音菩薩の石仏なども祀られており、巡礼者の信仰を集めています。
1630年
(寛永7年)
麻田藩2代藩主・青木重兼(法号:端山)によって、藩領内の麻田村東方にあたる天王山の麓に松隣寺という寺院が建立されました。この松隣寺が後の仏日寺の前身となった寺院であり、当初は麻田藩主の菩提寺として機能し始め、寺の基盤が築かれました。
1654年
(承応3年)
承応3年、前身の松隣寺は現在の池田市畑(当時「我孫子」と称された地域)に移転され、大規模な伽藍整備が行われました。このとき新たに仏殿(本堂)や禅堂、方丈(住職の居所)、山門、鐘楼など主要な建築物が次々と建立され、寺観が一新されます。これにより現在の仏日寺の基本的な姿が形づくられ、麻田藩主の庇護のもと寺院としての格が高められました。
1659年
(万治2年)
万治2年、麻田藩主・青木重兼は中国から来日して黄檗宗を広めていた高僧・隠元隆琦を招き、仏日寺の開山(初代住職)として迎えました。隠元隆琦はこの前年に宇治に萬福寺を開いたばかりでしたが、青木重兼の要請により当地を訪れたと伝えられます。隠元を開山に迎えたことで寺号も「摩耶山仏日寺」と改められ、仏日寺は日本における黄檗宗の寺院として正式に出発することになりました。この出来事は、仏日寺が萬福寺に次ぐ早期の黄檗宗寺院として成立したことを意味し、その歴史的意義は極めて大きいものです。
1661年
(寛文元年)
仏日寺の開山職を務めた隠元隆琦は本山の萬福寺に戻りましたが、その弟子である慧林性機(えいりん しょうき)が寛文元年に仏日寺の初代住職として着任しました。慧林性機は萬福寺第三世住持であり、黄檗宗の一派「龍興派」の祖とされる高僧です。彼の住職就任により、仏日寺は隠元の教えを直接受け継ぐ寺院としての歩みを始め、以後の発展の礎が築かれました。
1680年
(延宝8年)
延宝8年には、黄檗宗の名僧である高泉性潡(こうせん しょうどん)が仏日寺の住職として入寺しました。高泉性潡は萬福寺第五世住持を務め、のちに美濃国に佛国寺を開山した人物です。さらに元禄10年(1697年)には慧極道明(えききょく どうみょう)が住職となりました。慧極道明は黄檗宗聖林派の祖であり、法雲寺を開いた高僧です。このように17世紀後半には黄檗宗の著名な僧侶たちが相次いで仏日寺の住職を務め、その教えと禅風を伝えました。歴代住職の多くが龍興派の系統に属したことで、仏日寺は一派の教えを代々受け継ぐ“一流相承”の寺院としての伝統を確立します。
1995年
(平成7年)
平成7年1月17日に発生した阪神・淡路大震災では、仏日寺も強い揺れに見舞われ、大きな被害を受けました。特に山門の柱や壁に深刻な亀裂が生じ、このままでは倒壊しかねない危険な状態となります。幸い本堂を含む他の主要建物には致命的な損傷はありませんでしたが、歴史ある山門を失う恐れに見舞われたことは寺にとって大きな痛手でした。
1996年
(平成8年)
震災で損傷した山門は、安全確保のため一度解体されることになりました。その後、平成8年中に山門の再建工事が行われ、翌年までに復旧が完了します。再建された新しい山門は外観こそ真新しくなりましたが、可能な限り旧来の意匠を再現しており、往時の風格を伝えるものとなっています。地域住民や檀信徒にとって山門の再建は寺の復興の象徴であり、仏日寺は震災から立ち直って以降も変わらず祈りの場であり続けています。
2021年
(令和3年)
令和3年には、ミャンマー出身のサッカー選手、ピエ・リヤン・アウン氏が仏日寺を訪れました。彼は同年に発生したミャンマー軍事クーデターへの抗議の意思を示し、日本で難民申請を行った人物です。仏日寺で祈りを捧げる彼の姿は国内外で報じられ、日本における自由と平和の祈りの象徴的な出来事となりました。この出来事は、現代においても仏日寺が平和や人権を願う人々に寄り添う場であり続けていることを示すエピソードとなっています。