| 所在地 | 大阪府豊中市刀根山元町5-11 |
|---|---|
| 宗派 | 曹洞宗 |
| 山号 | 玉宝山(ぎょくほうざん) |
| 本尊 | 聖観世音菩薩 |
| 創建 | 元亀3年(1572年) |
仏眼寺の起源は平安時代・長徳年間(995~999年)にさかのぼります。 寺伝によれば、花山法皇(花山天皇)の院宣を受け、法皇の剃髪師であった仏眼上人が 天台宗寺院「宝珠寺」の奥之院としてこの地に創建したと伝えられます。 現在の豊中市熊野町一帯には宝珠寺に関連する遺構が残され、 その周辺には花山法皇と仏眼上人の墓塔と伝えられる南北朝時代の石造宝篋印塔(二基)が現存しています。 しかし、宝珠寺は長い年月の間に荒廃し、江戸時代には山林と化していました。
江戸時代中期、宝暦9年(1759年)、大阪の両替商・長浜屋治右衛門(号:規矩超倫居士)は 浄春院での戒会に参加した際、曹洞宗の禅僧・頑極官慶禅師に深く帰依します。 治右衛門は自らの所領である熊野田村(旧宝珠寺跡地)に先祖供養のための寺院建立を発願し、 頑極禅師に開創を依頼しました。 翌宝暦10年(1760年)9月、頑極官慶を開山に迎え、曹洞宗寺院「仏眼寺」が再興されます。 寺号の「熊耳山」は、中国で禅宗の開祖・達磨大師が葬られたとされる地名「熊耳山」にちなむものです。 再興にあたっては、頑極禅師の師・遠州少林寺の黙子禅師を開山始祖と仰ぎ、 頑極禅師自身は第二世住職として寺門を統べました。 これは曹洞宗西来派の伝統に基づく形式で、師を初代に立てる慣例に従ったものです。
再興後、仏眼寺は長浜屋治右衛門の菩提寺として発展し、地域の信仰を支える禅寺となりました。 寺宝の梵鐘は天明6年(1786年)に鋳造されたもので、竜頭は和様、鐘身は唐様を模した古風な意匠を持ち、 「摂津州豊島郡熊野田村佛眼禅寺」と旧所在地名が刻まれています。 この梵鐘は現在、豊中市指定有形文化財に登録されています。 また、江戸後期には道元禅師の著書『正法眼蔵』の一部(行持巻・弁道話)を「仏眼寺版」として刊行するなど、 曹洞宗教学の発展にも貢献しました。 さらに、寺子屋を開設し地域教育にも携わり、当時使用された机や駕籠が今も史料として残っています。
近代以降も仏眼寺は熊野町地区の寺院として存続し、昭和戦後期には本堂や山門の整備が進められました。 平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災では鐘楼が倒壊する被害を受けましたが、 平成10年(1998年)に耐震性と防犯性を兼ね備えた新しい鐘楼が再建されました。 平安の創建から千年余の時を経て、仏眼寺は今も地域の信仰と文化を静かに見守り続けています。
仏眼寺の本堂は寺域の奥に東向きで建ち、正面には「熊耳山」と記された扁額が掲げられています。 現在の本堂は近年改築された鉄筋コンクリート造で、入母屋造風の屋根を持ちながらも内部は近代的に整備。 本尊の阿弥陀如来像(または釈迦如来像)が安置され、仏眼上人ゆかりの古像や什物も伝わっているとされます。 周囲は石畳の広場となり、地域檀信徒の法要や行事が行われる場として利用されています。
本堂正面から参道を進むと四脚門形式の山門が建っています。 切妻造瓦葺の屋根を載せ、両脇の白壁が調和する端正な佇まい。 再建された現代の門ながら古風な意匠が取り入れられ、門柱には寺号と山号を刻んだ表札石が立ちます。 門前からは熊野町の住宅街越しに大阪平野を望むことができ、往時には里山の風景が広がっていたと想像されます。
境内北側に建つ鐘楼堂は、鉄筋コンクリートと木材を融合させた独特の構造を持ちます。 黒御影石の基壇の上に宝形造風の本瓦屋根を載せ、面格子状の耐力壁で囲まれたデザインが特徴。 格子の隙間から内部の梵鐘を眺めることができ、防犯性と鑑賞性を両立しています。 鋳造は天明6年(1786年)で、豊中市指定有形文化財にも登録。 朝夕に響くその鐘の音は、江戸期から変わらぬ余韻を今に伝えています。
本堂脇には庫裡(くり)や客殿があり、住職一家の居住と寺務の場となっています。 境内には石仏や石碑が点在し、山門近くには「満願供養塔」と呼ばれる石塔が建立され往時を偲ばせます。 また、入口には熊野権現を祀る小祠があり、熊野三所権現を勧請した歴史を今に伝えています。 秋には萩の花が咲き、静寂な境内を風雅に彩ります。
長徳年間(995~999年)
花山法皇(花山天皇)の勅許を受け、仏眼上人が当地に天台宗寺院「宝珠寺奥之院」を創建。 平安時代における熊野田の信仰の中心として栄えたと伝えられる。
室町時代中期
宝珠寺が戦乱や時勢の変化により廃絶し、熊野田村内には荒廃した寺跡だけが残るようになる。 以後、長く山林として放置される。
宝暦10年(1760年)
大坂の豪商・長浜屋治右衛門(規矩超倫居士)が発願し、 曹洞宗の頑極官慶禅師を開山として熊耳山仏眼寺を建立。 中国「熊耳山」にちなむ寺号を名乗り、曹洞宗寺院として再興された。
明和~天明期(1760~1780年代)
寺子屋を開設して地域教育に貢献し、 曹洞宗の宗典『正法眼蔵』の一部を「仏眼寺版」として刊行。 天明6年(1786年)には梵鐘を鋳造し、後に豊中市指定文化財となる。
明治初年(1868年)
神仏分離令により、境内社の熊野権現社を分離。 その後、近隣の八坂神社として存続し、仏眼寺は純粋な曹洞宗寺院となる。
昭和後期
本堂・山門などの改修整備を実施し、寺院の景観と機能を現代的に再構築。 地域の信仰と文化活動の拠点として整えられる。
1995年(平成7年)
阪神・淡路大震災により鐘楼堂が倒壊する被害を受ける。 境内の一部が損壊し、再建が検討される。
1998年(平成10年)
面格子耐力壁構造による新しい鐘楼堂が完成。 耐震・防犯性を備えた現代的設計ながら、伝統的な宝形造風屋根を継承し、 江戸期以来の鐘の音が今も地域に響いている。