| 所在地 | 大阪府大阪市住吉区苅田6丁目11-24 |
|---|---|
| 電話 | 06-6691-1362 |
| 宗派 | 浄土真宗仏光寺派 |
| 本尊 | 阿弥陀如来 |
| 創建 | 寛元2年(1244年) |
| 文化財 | 仏光寺大阪別院真宗関係史料 一括16点(大阪市指定有形文化財) |
仏光寺別院は、大阪市住吉区苅田に位置する浄土真宗仏光寺派の寺院です。京都市下京区に本山を置く佛光寺の別院(本山直属の出先寺院)として、長い歴史を刻んできました。開基は親鸞聖人の高弟・嘉清とされ、寛元2年(1244年)に大坂天王寺庄百済野の地に草創されたと伝えられています。
南北朝の動乱期である正慶元年(1332年)に寺基を大坂平野町(現・大阪市中央区平野町)へ移し、以後近世にかけて大坂における浄土真宗信仰の拠点となりました。江戸時代の宝永元年(1704年)には幕府から公許を得て本山直属の別院(本山掛所)と認められ、「船場御堂」と称されています。のちに「平野御堂」と改称され、明治元年(1868年)にその称号が廃されました。
昭和37年(1962年)に老朽化した平野町の旧伽藍から現在地の住吉区苅田へ移転し、新本堂が建立されました。その際、江戸中期・寛保元年(1741年)造立の旧本堂内陣の荘厳や欄間・襖絵などが新本堂へ移設されており、往時の遺構を内部に残しています。
現在は宗派の大阪教務所として機能しており、一般の参拝は受け付けていません。しかし絹本著色方便法身阿弥陀如来画像をはじめ親鸞聖人ゆかりの貴重な史料16点が「仏光寺大阪別院真宗関係史料」として大阪市指定有形文化財に指定されており、その文化的価値は高く評価されています。
絹本著色方便法身阿弥陀如来画像をはじめとする一括16点の真宗関係史料が大阪市指定有形文化財に指定されています。親鸞聖人ゆかりの貴重な資料群です。
寛保元年(1741年)造立の旧本堂から移設された内陣の荘厳や欄間・襖絵が新本堂内部に残されています。江戸中期の優美な装飾を今に伝える貴重な遺構です。
住吉区苅田の閑静な住宅街に面して建つ山門には「仏光寺大阪別院」の寺号標が掲げられています。一般非公開のため平常時は扉が閉ざされています。
昭和37年の移転時に建立された本堂は鉄筋コンクリート造ながら伝統様式を取り入れた意匠です。内部には阿弥陀如来や親鸞聖人の画像、歴代門主の画像など貴重な寺宝が伝わっています。
寛元2年
(1244年)
親鸞聖人の高弟・嘉清が大坂天王寺庄百済野の地に一宇を建立しました。これが仏光寺大阪別院の起源であり、浄土真宗仏光寺派の大阪における拠点としての歴史が始まっています。
正慶元年
(1332年)
南北朝の動乱に際し、寺基を大坂市中の平野町(現・大阪市中央区平野町)に移しました。以後「大坂御堂」として都市部に寺地を構え、浄土真宗信仰の拠点となっています。
宝永元年
(1704年)
江戸幕府から寺院としての公許を受け、本山佛光寺の掛所(別院)に列せられました。この頃「船場御堂」と称され、大坂の門徒から篤い信仰を集めています。
寛保元年
(1741年)
中興の祖と仰がれる了源(仏光寺第7世門主)の時代にあたり、近世中期の伽藍整備が行われました。この時の内陣装飾や欄間・襖絵は現在も新本堂に移設されて残っています。
江戸後期
(18世紀後半〜19世紀)
「船場御堂」の名称が「平野御堂」に改められ、大坂平野町の地名にちなんだ呼称で門徒に親しまれるようになりました。
明治元年
(1868年)
明治維新に伴い「平野御堂」の称号が官方により廃止されました。以後は近代的な「仏光寺大阪別院」として宗教法人を設立しています。
昭和20年
(1945年)
第二次世界大戦の大阪大空襲において堂宇が被災を免れ、江戸期建立の本堂・山門・鐘楼などが焼失を免れました。戦災に遭わなかったことで多くの寺宝や建築が現存しています。
昭和37年
(1962年)
老朽化した平野町の旧伽藍から大阪市住吉区苅田の現在地へ移転し、新本堂を建立しました。旧本堂の内陣装飾や欄間・襖絵を新本堂へ移設し、往時の遺構を内部に残しています。
現在
現在は浄土真宗仏光寺派の大阪教務所として機能しており、一般参拝は受け付けていません。親鸞聖人ゆかりの真宗関係史料16点が大阪市指定有形文化財に指定され、その文化的価値が高く評価されています。