| 寺院名 | 不動寺(ふどうじ) |
|---|---|
| 所在地 | 大阪府大阪市西区九条南3丁目7-2 |
| 山号 | 歓弘山(かんこうざん) |
| 宗派 | 真言宗醍醐派 |
| 本尊 | 不動明王(木造坐像) |
| 創建 | 伝・弘仁年間(810年頃) |
| 中興 | 明治初年(1868年頃) |
| 文化財 | 勝海舟顕彰碑(境内碑)/ 木造不動明王坐像(室町時代作) |
大阪市西区九条にある不動寺は、真言宗醍醐派に属する寺院で、 不動明王を本尊とする霊場です。 その起源は平安時代初期の弘仁年間(9世紀初頭)にさかのぼり、 空海(弘法大師)が諸国巡錫の折、 摂津国兎我野の地で七色に光る霊石を見出し、 不動明王の梵字を刻んだ五輪塔を建立して不動堂を開いたことに始まると伝えられます。 平安時代には嵯峨天皇や後鳥羽上皇の勅願所となり、 その後、戦乱によって一時焼失するものの再建されました。 安土桃山時代の文禄3年(1594年)には、 豊臣秀吉の庇護のもとで再興され、 江戸時代には「兎我野の不動さん」として庶民に親しまれ、 厄除け・災難除けの祈願所として広く信仰を集めました。 明治初年には、初代住職・神谷秀観翁が修験道の行場として寺院を復興し、 不動明王への祈祷道場として法灯を守り続けてきました。 境内には、その事績を称える勝海舟揮毫の顕彰碑が建立され、 寺の歴史的背景を今に伝えています。 第二次世界大戦中の大阪大空襲で堂宇は全焼しましたが、 昭和25年(1950年)に本堂が再建されました。 その後、戦後の都市環境の変化により 従来の大護摩供などの行事継続が困難となったため、 昭和41年(1966年)に寺院機能は大阪府豊中市へ移転され、 現在、九条南の旧地は一般参拝不可となっています。
不動寺の山門は、九条の静かな住宅街にひっそりと佇む簡素な門構えです。 瓦屋根を頂いた伝統的な様式の一端を外部から望むことができ、 扉は常時閉ざされているものの、門前は丁寧に清掃され、 古刹としての凛とした雰囲気が漂っています。 周囲の喧騒から切り離された門越しの境内には静寂が満ち、 都市の中にあっても聖域の空気を感じさせます。
山門の内側正面に位置する本堂は、昭和25年(1950年)に再建された堂宇です。 戦災後の再建でありながら、切妻屋根を備えた伝統的な寺院建築の意匠を保ち、 堂々とした佇まいを見せています。 内部には本尊・不動明王が安置されていますが、秘仏とされ通常は公開されていません。 木造不動明王坐像は室町時代の作と伝えられ、 下総国小金領大谷口城主の守本尊であったという由緒を持つ貴重な古仏です。 現在は一般参拝不可ですが、外観からその荘重な姿を拝することができます。
本堂脇には、明治期に建立された顕彰碑が建ち、 不動寺を中興した神谷秀観翁の功績を今に伝えています。 碑文は幕末の幕臣であり明治政府の要人でもあった勝海舟の揮毫によるもので、 秀観翁の人柄と祈祷道場としての寺の役割に感銘を受けて記されたと伝えられます。 一般には非公開ですが、寺史を物語る重要な遺物として大切に保存されています。
810年頃
(弘仁年間)
空海(弘法大師)が諸国巡錫の折、摂津国兎我野の地に不動堂を開創したと伝えられる。 七色に光る霊石の瑞祥により、不動明王信仰の霊場としての歩みが始まった。
1184年
(元暦元年)
後鳥羽上皇の勅願所として祈願が行われたと伝えられ、 皇室とも縁を持つ霊場として寺勢を高めた。
1594年
(文禄3年)
豊臣秀吉の命により寺運が再興され、 「兎我野の不動」として庶民の厚い信仰を集める祈願所となった。
明治初年
(1868年頃)
神谷秀観翁が当寺を修験道の霊場として復興し、 真言宗醍醐派の寺院として再興。 不動明王信仰の祈祷道場として法灯が受け継がれた。
1945年
(昭和20年)
大阪大空襲により堂宇が全焼し、 長い歴史を刻んできた伽藍は大きな被害を受けた。
1950年
(昭和25年)
戦後復興の中で本堂が再建され、 不動明王信仰の拠点として再び祈りの場が整えられた。
1966年
(昭和41年)
都市部における信仰環境の悪化に伴い、 本堂・護摩堂などの寺院機能を大阪府豊中市へ移転。 現在の「大聖山不動寺」として信仰が受け継がれている。