所在地 | 大阪府豊中市宮山町4丁目7-2 |
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宗派 | 真言宗醍醐派 |
山号・院号 | 大聖山 明王院(だいしょうざん みょうおういん) |
本尊 | 五大明王(五大力不動明王) |
創建 | 弘仁年間(810年~824年) |
開基(創立者) | 伝・弘法大師(空海) |
中興 | 文禄3年(1594年) |
札所 | 近畿三十六不動尊霊場 第8番/摂津国八十八箇所 第8番 |
HP | fudouji.jp |
不動寺は、平安時代初期の弘仁年間(9世紀初頭)に弘法大師・空海が開いたと伝えられる古刹です。 寺伝によれば、空海が諸国巡錫の折、当時の摂津国西生郡兎我野(現在の大阪市北区兎我野町)で七色の光を放つ霊石を発見し、 それを材料に五輪塔を造って不動明王を表す梵字を刻み、不動堂を建立したのが起源とされています。
平安時代には嵯峨天皇・後鳥羽天皇の勅願所となり、豊臣氏や徳川氏からの庇護も受けました。 「兎我野の不動様」として庶民からも厚く信仰され、霊験あらたかな不動尊として知られました。 鎌倉時代末期には兵火により堂宇を焼失しましたが、その後再建され、文禄3年(1594年)に再興。 江戸時代を通じて大阪の町中で人々の信仰を集め、都市信仰の象徴的存在となりました。
しかし、第二次世界大戦中の大阪大空襲(1945年6月)で堂宇が全焼する被害を受けます。 戦後の1950年(昭和25年)に本堂が再建されましたが、都市復興に伴い旧所在地の兎我野周辺が歓楽街化するなど環境の変化が進んだため、 古来より行われていた大護摩供の継続が困難となり、1966年(昭和41年)に豊中市宮山町へ寺域ごと移転しました。
現在の境内には、旧大阪市内の寺地から移築された建物が多く残されています。 本堂のほか、護摩祈祷を行う木造の護摩堂、仁徳天皇に縁ある白鹿を祀る「白鹿堂」、 太平洋戦争戦没者を供養する「英霊堂」などが整然と並び、往時の面影を今に伝えています。 不動寺は真言宗醍醐派に属し、本尊は五大明王の中でも五体の不動明王から成る「五大力不動明王」。 その力強いご加護を求め、厄除け・心願成就・家内安全を祈る参拝者が今も後を絶ちません。
また、不動寺は「近畿三十六不動尊霊場」および「摂津国八十八箇所霊場」の第8番札所に指定されており、 長い歴史と伝統を今に伝える信仰の地として、多くの巡礼者や参拝者に親しまれています。
豊中市宮山町の高台に建つ不動寺本堂は、昭和25年(1950年)に鉄筋コンクリート造で再建され、 昭和41年(1966年)に現在地へ移転しました。正面に石段を備えた近代的な建物で、 内部には本尊・五大明王(五大力不動明王)を中心に、降三世明王・軍荼利明王・大威徳明王・金剛夜叉明王・愛染明王が祀られています。 それぞれが大日大聖不動明王の化身として厄除け・心願成就を祈る参拝者に力を与えています。
本堂脇には木造瓦葺の護摩堂があり、旧大阪市内の寺地から移築された建物です。 護摩堂では現在も護摩法要が営まれ、不動明王像(平成期の仏師・松本明慶氏作)が安置されています。 炎の中に祈りを込める真言密教の護摩儀礼を体験できる、寺院の中心的な修法の場です。
境内右手には、弘法大師ゆかりの白鹿霊神を祀る「白鹿堂(白鹿霊神社)」があります。 寺伝によると、空海が兎我野で不動寺を開いた際、仁徳天皇の愛した白鹿が夢枕に立ち、 「我を信ずる者には夢に兆しを現わし、諸難を逃れさせよう」と告げたといいます。 以来「お鹿さま」「夢の白鹿霊神」として信仰を集め、毎年11月3日には白鹿霊神祭(柴燈大護摩供・火渡り荒行)が盛大に営まれます。 山伏姿の行者が炎の中を渡る姿は圧巻で、境内は荘厳な熱気に包まれます。
境内左手には弘法大師を祀る大師堂、聖観音菩薩を祀る観音堂が並びます。 観音堂の天井には60枚の花の天井画が描かれ、彩り豊かな空間で先祖供養の位牌が安置されています。 さらに、太平洋戦争の戦没者を祀る英霊堂も設けられ、毎年12月8日には英霊総供養法要が営まれます。 戦争犠牲者の慰霊と平和祈願を行う寺としての役割も果たしています。
境内には身代わり不動明王像(三宝荒神として災難を代わりに受ける不動明王)や、 過去・現在・未来を象徴する三世仏(釈迦如来・地蔵菩薩・弥勒菩薩)の石仏などが点在しています。 訪れる人々が静かに祈りを捧げることができるよう、境内全体が調和の取れた信仰空間として整えられています。
不動寺では一年を通して多彩な行事が催されています。 毎月8日と28日には不動明王の縁日護摩が行われ、一般参拝者も参加可能です。 正月三が日には「修正会護摩祈祷」で一年の無病息災を祈願し、2月の節分祭では厄除け護摩と秘仏九体の特別開帳が行われます。 春分・秋分の彼岸会法要や、8月の「八朔の胡瓜加持」「施餓鬼供養」など、 四季折々の伝統行事が受け継がれ、地域とともに歩む霊場としての姿を今に伝えています。
弘仁年間(810~824年)頃
弘法大師・空海が摂津国北野村(兎我野)にて七色の光を放つ霊石を得て不動明王を刻み、不動堂を建立。 これが不動寺の起源とされ、真言密教の霊場として始まる。
平安時代中期
嵯峨天皇および後鳥羽天皇の勅願所に定められ、都の外護を受けて発展。 「兎我野の不動尊」として庶民の信仰を集めた。
文治~建久年間(1185~1199年)
治承・寿永の内乱(源平合戦)前後の戦火で堂宇が焼失し、一時荒廃する。 その後、信仰の復興運動によって再建が模索される。
文禄3年(1594年)
大坂城下の庶民信仰の高まりを背景に堂宇が再建される。 豊臣秀吉および徳川氏の庇護を受け、江戸時代を通じて兎我野の不動寺として繁栄した。
明治時代
都市化の中でも大阪市兎我野町に存続し、第二次大戦前には毎月21日の縁日で多くの参拝者が訪れた。 摂津国八十八箇所霊場の巡礼地としても賑わいを見せた。
昭和20年(1945年)
6月1日の大阪大空襲で堂宇が全焼。寺宝や記録の多くが失われ、廃墟となる。 しかし檀信徒の信仰は絶えることなく、戦後の再建へとつながった。
昭和25年(1950年)
戦後5年を経て、大阪市北区兎我野町の旧境内にて本堂・伽藍が再建される。 廃墟からの復興を遂げ、信仰の灯が再び灯る。
昭和41年(1966年)
都心部の環境悪化に伴い、寺域を大阪市兎我野町から豊中市宮山町へ移転。 本堂・護摩堂・白鹿堂・英霊堂など主要建物を解体移築し、「豊中不動尊」として再興される。
昭和54年(1979年)
「近畿三十六不動尊霊場」が発足し、不動寺はその第8番札所に選定される。 不動明王信仰の主要霊場として全国から巡礼者を迎える。
昭和55年(1980年)
戦後再興された「摂津国八十八箇所霊場」においても第8番札所として登録され、 巡礼文化の再興に貢献する。
平成以降~令和時代
平成期に本堂の五大明王像や愛染明王像の彩色修復が行われ、境内整備が進む。 現在は文化財指定に向けた調査も進行中で、千年以上の歴史を持つ古刹として 不動信仰と文化遺産の継承に取り組んでいる。