| 所在地 | 大阪府大阪市住吉区住吉2丁目6-23 |
|---|---|
| 電話 | 06-6671-9682 |
| 宗派 | 浄土宗 |
| 山号 | 法性山(別称:龍王山・金龍山) |
| 本尊 | 阿弥陀如来立像 |
| 創建 | 伝・推古21年(613年)/中興:天正14年(1586年) |
| 文化財 | 木造阿弥陀如来立像(鎌倉時代末期作・大阪市指定有形文化財) |
| 公式サイト | https://www.ichiunji.com/ |
大阪市住吉区住吉に位置する一運寺は、浄土宗に属する寺院で、山号を法性山(別称:龍王山・金龍山)と称しています。聖徳太子が推古21年(613年)に厄除けのため七堂伽藍を建立し「磯長山転法輪寺」と号したのが起源と伝えられています。以降、最澄や空海、法然といった歴史上の高僧が住吉大社参詣の折に立ち寄り説法したとも伝えられており、住吉の地における古い信仰の歴史を物語っています。
近世までに度重なる戦火や火災で堂宇を焼失し一時衰退していますが、安土桃山時代の天正14年(1586年)に浄土宗の僧・存寧(本誉存寧)によって再興されています。この再興により一運寺は浄土宗寺院として大阪における法然上人ゆかりの霊跡の一つに位置付けられるようになっています。元和元年(1615年)の大坂夏の陣では堂宇が悉く焼失していますが、寺宝の一部は難を逃れ、その後仮の堂宇で細々と存続しています。
本堂に安置されている木造阿弥陀如来立像は、像高約80センチメートルの鎌倉時代末期の作で、江戸時代には伝教大師(最澄)作との伝承もあった古仏です。平成22年(2010年)に大阪市指定有形文化財に指定されており、その歴史的・美術的価値が公的に認められています。現在は非公開ながら寺宝として厳重に保存されています。
境内には赤穂義士として知られる大石内蔵助・大石主税父子と寺坂吉右衛門の三基の墓が堂々として石壇上に安置されており、史実の舞台となった大阪に残る貴重な忠臣蔵ゆかりの地として、現在も墓前には義士の冥福を祈る参拝者の姿が絶えていません。一運寺は一般参拝は受け付けていませんが、住吉大社の北隣に位置し、聖徳太子以来の悠久の歴史を今に伝える存在となっています。
一運寺の山門は静かな住宅街の一角にひっそりと構えられています。住吉大社の北隣に位置し、門前には「赤穂義士の墓」と刻まれた石碑が建てられており、歴史愛好家の目を引いています。質素ながら風格のある門をくぐると広々とした境内が広がっています。
昭和43年(1968年)に再建された本堂は一運寺の中心となる御堂で、本尊の木造阿弥陀如来立像が安置されています。鎌倉時代末期作のこの仏像は大阪市指定有形文化財に指定されており、像高約80センチメートルの古仏として貴重な存在となっています。
境内には赤穂義士として知られる大石内蔵助・大石主税父子と寺坂吉右衛門の三基の墓が堂々とした石壇上に安置されています。中央に大石内蔵助、右に大石主税、左に寺坂吉右衛門の墓が並ぶ形で配置されており、史実の舞台となった大阪に残る貴重な忠臣蔵ゆかりの史跡として、現在も参拝者が訪れています。
一運寺は推古21年(613年)に聖徳太子が七堂伽藍を建立したとの伝承を起源に持つ寺院です。住吉の地は古来より神仏習合の霊域として栄えており、一運寺もその歴史の中で最澄・空海・法然といった高僧が立ち寄ったと伝えられる由緒深い霊場となっています。
613年
(推古21年)
寺伝によれば、聖徳太子が夢で得た霊告に従い、自らの厄年にあたる42歳の時に発願して住吉の地に七堂伽藍からなる「磯長山転法輪寺」を建立したと伝えられています。これが一運寺の起源とされており、以後この地は神仏習合の霊域として栄えています。
平安時代
(9〜10世紀)
寺伝によれば、平安初期には天台宗の開祖・最澄や真言宗の開祖・空海といった高僧が住吉明神に詣もった折に当寺に立ち寄り、堂宇で法談・説法を行ったと伝えられています。一運寺が古くから名僧ゆかりの霊場として語られてきたことを物語っています。
1450年
(宝徳2年)
室町時代中期、戦乱や時勢の変遷で荒廃していた寺を浄土宗の僧・良公が再建し、中興の開山となったと伝えられています。この頃までに一運寺は天台・真言系の寺院から浄土宗の寺院へと姿を変えていったとされています。
1586年
(天正14年)
安土桃山時代の天正14年、浄土宗の僧・存寧(本誉存寧)によって寺が再興されています。戦国期の混乱で寺勢が衰えていた中、存寧上人は当寺を復興し、近世に引き継がれる基盤を整えています。この再興により一運寺は大阪における法然上人ゆかりの霊跡の一つに位置付けられています。
1615年
(元和元年)
大坂夏の陣の兵火により一運寺の堂宇は悉く焼失しています。豊臣方と徳川方の戦乱が住吉付近にも及んだ結果とみられ、創建以来守られてきた七堂伽藍も灰燼に帰しています。寺宝の一部は難を逃れ、以後仮の堂宇で細々と存続しています。
江戸時代中期
元禄赤穂事件(忠臣蔵)にゆかりのある大石内蔵助・大石主税父子および寺坂吉右衛門の墓が一運寺境内に建立されています。三基の墓は石壇上に並ぶ形で安置されており、史実の舞台となった大阪に残る貴重な忠臣蔵ゆかりの史跡として参拝者を集めています。
文政年間
(19世紀初頭)
文政年間に火災が発生し、本堂をはじめとする堂宇が焼失しています。しかし本尊の木造阿弥陀如来立像は難を逃れて現存しており、その後の再建により一運寺は寺院としての体裁を取り戻しています。
1868年
(明治元年)
明治維新後の廃仏毀釈の影響を受け、一運寺も一時困難な時期を迎えています。しかし浄土宗寺院として門徒の支持に支えられて存続し、赤穂義士の墓をはじめとする境内の史跡も守り伝えられています。
1968年
(昭和43年)
昭和43年に本堂が再建されています。近代的な建築手法を取り入れた堂宇として生まれ変わり、本尊の木造阿弥陀如来立像が再び安置されています。
2010年
(平成22年)
本尊の木造阿弥陀如来立像が大阪市指定有形文化財に指定されています。像高約80センチメートルの鎌倉時代末期の作で、その歴史的・美術的価値が公的に認められています。
現在
(令和時代)
現在も一運寺は住吉大社の北隣に静かに佇み、推古21年の伝承に始まる悠久の歴史を今に伝えています。大阪市指定有形文化財の木造阿弥陀如来立像や赤穂義士の墓など、貴重な文化遺産と史跡を護持する寺院として注目されています。